「熱男を演じきった」恥ずかしがり屋・松田宣浩さん…川崎宗則さんからの後継指名が転機
プロはアマチュアと違う。ムードメーカー100%、結果0%だったら一軍にはいられない。どちらも100%の思いでやることが責任感につながります。 この頃、目に見えない力が出てきて、19年まで5年連続で全試合出場し、熱男とともに野球人として成長しました。恥ずかしがり屋なことを知っている小学校から大学までのチームメートからは「プロで、よく熱男キャラできたね」と言われます。 「熱男を演じきりました。演じきることでいつも以上にエネルギーを使う。エネルギーを使わないと結果は出ない」
2000安打未練なし、「40歳まで」貫く
入団1年目の春季キャンプで、コーチから技術指導よりも「息の長い選手になるんだ」とずっと言われました。「40歳までプロ野球選手を続ける」。以来、誰に何を言われようとも揺るがない信念のワードでした。 22年のシーズンを終え、実力の世界ですから退団しました。39歳でやめる自分を想像していなくて、あと1年との思いでした。巨人の原辰徳監督(当時)から「まだやれるから飛び込んできなさい」と誘いの電話があり、驚き、うれしかったです。
1年目だから一日一日が新鮮でした。環境を変えたらと一生懸命に飛び込んだけど、技術と体力の衰えで1年で引退しました。2000安打への意識はなく未練もありません。「40歳まで」の信念を貫き、十分です。 野球を仕事でしている以上、ユニホームを着て脱ぐまでキャラを変えて演じきる。そのエネルギーを使って結果を出す。「熱男」という言葉、多くの人との出会いが、大きかったです。
<ふるさと>滋賀県・草津市…双子の兄がライバル
中学卒業まで過ごした草津が原点です。甲子園球児だった父親の影響で、小学2年生から地元のスポーツ少年団で双子の兄と野球を始めました。「松田ツインズ」なんて呼ばれ、比べられることもありました。 兄弟で親元を離れて中京商に進学しました。兄は野球もそれ以外の運動でも常に上で、とても身近なライバルでした。
琵琶湖に浮かぶ矢橋帰帆島(やばせきはんとう)公園で、よく遊んで練習をしました。自分のパワースポットです。実家には現役中も試合の移動日とか、時間をみつけて帰っていました。やっぱり琵琶湖を見ると落ち着きます。 草津では、プロ野球選手と接する機会が少なく、現役時代は野球教室を毎年開いていました。今後も地元に恩返しをし、野球を通じて子どもたちと触れ合いたいです。