原子力施設で臨界事故 25年前のあの日、村長は独断で避難を決めた
茨城県東海村の核燃料加工会社「JCO」の臨界事故から30日で25年を迎えた。日本の原子力施設で初めて被曝(ひばく)による死者を出した事故だった。当時の村長だった村上達也さん(81)はどう感じ、どう過ごしてきたのか。そして今、何を思うのか。 【画像】JCO臨界事故後も原子力を巡る事故やトラブルは相次いでいる 「電力不足やエネルギー危機という声に乗って、何もかもしてしまえ、という雰囲気。日本は反省のない国だなと思う」。東海村で2013年まで村長を4期にわたり務めた村上達也さん(81)は原発回帰を進めた政府を批判する。 地銀勤めを経て、原子力推進派だった前村長の後継者として1997年に初当選した。 99年9月30日は公務で県外にいた。「JCOで臨界事故」と連絡を受けた。すぐ村に向かったが、警察官が多数出動し、役場につながる道は通行止め。上空には報道機関のヘリコプターが飛んでいた。「まるで戦場のような騒ぎだった」 役場に戻ると、JCOの職員が真っ青な顔で飛び込んできた。地図の一区画がペンで囲われ、「この範囲の住民を避難させてほしい」と頼まれた。 村に原子力災害の避難計画はなかった。当時の科学技術庁は大混乱で電話がつながらず、県も災害対策の体制を取れていなかった。 JCOから350メートル圏内の住民約150人の避難を独断で決め、夜中までかけて実行した。でも、「500メートルにしておけば」「避難誘導にあたった村職員を被曝(ひばく)させてしまった」と振り返れば反省は多い。 以来、原子力政策への違和感を強く持った。11年の東日本大震災では村内の日本原子力発電の東海第二原発も被災した。津波があと70センチ高ければ海水が防波堤を越え、冷却機能が失われていたかもしれない危機に対応した。「日本には技術はあるが、規制や管理のための科学がない状況は変わっていない」と語る。(張守男) ■JCO臨界事故とは 1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所で、作業員が正規の手順を逸脱してステンレスのバケツでウラン粉末を溶かし、規定以上のウラン溶液をタンクに入れ、核分裂反応が連続して起きる臨界が発生。放射線の一種である中性子線などが工場外まで観測された。間近で作業していた2人が同年12月と翌年4月に死亡。周辺住民ら計660人以上が被曝(ひばく)した。 ■村上達也さん むらかみ・たつや 1943年生まれ。常陽銀行ひたちなか支店長を経て1997年に東海村長に就任。4期を務め2013年に勇退。「脱原発をめざす首長会議」世話人。
朝日新聞社