祖母は焼死、9歳で母が死去…壮絶ないじめで退学など悲惨な経験を乗り越えイギリスの首相になった貴族とは? とある侯爵家の大躍進の歴史
エリザベス1世の女王秘書官として、英国王室と二人三脚の歩みを辿った一族がいる。ソールズベリ侯爵家、貴族の格付けの中では公爵の次に位置する「侯爵」であるが、その実政治面では負けず劣らずの地位を築いた。 なかでも、とりわけ才能を発揮したのが第3代侯爵である。最終的にイギリス首相にまで上り詰める彼は、華やかな経歴とは裏腹に非常に波乱万丈な人生を歩んだ。英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。
苦労人だった第3代侯爵
第3代侯爵ロバート(1830~1903)、彼の幼少期は悲惨なものであった。5歳のときに祖母が焼死し、9歳のときには母に早世され、ロバートの少年時代は孤独そのものであった。背が高くやせっぽちで、人見知りの激しい彼は、パブリック・スクールの名門校イートンに入学したものの、すぐに壮絶ないじめに遭ってしまう。15歳で退学し、以後はハットフィールド・ハウスへ帰り独学を続け、オクスフォード大学でのびのびと学問を楽しむことができるようになった。 23歳で庶民院議員に初当選し、4年後に判事の娘であるジョージナと結婚。5男3女の子宝に恵まれた。しかし前途は多難であった。ロバートは第2代侯の次男であり、侯爵家の世継ぎではなかった。江戸時代の日本の大名と同じく、家督を相続するのは長男だけで、次男三男は「部屋住みの身」にすぎない。しかも江戸期の大名とは異なり、血縁で結ばれてもいない他家に養子として入るわけにはいかなかった。当時の庶民院議員は、第2章でも論じたとおり、もちろん「無給」である。ロバートは持ち前の文才を活かし、新聞や雑誌などに積極的に投稿し、ジャーナリズムの世界で糊口をしのぐしかなかったのである。
兄の急死から首相就任へ
そのような彼に転機がおとずれた。1865年に突然、兄が世継ぎを残さず急死したのだ。ロバートは侯爵家の儀礼上の爵位である「クランボーン子爵(Viscount Cranborne)」を名乗るようになった。その3年後、今度は父が亡くなり、ここに彼は第3代侯爵を継承する。 父は政治的には二流であったが、投資の才能は卓越していた。下層中産階級や労働者階級が都市に移住するようになった情勢を鑑み、ロンドンや地方都市の開発に乗り出す。おかげで第3代侯は5万から6万ポンドもの年収を得られるようになっていた。しかも農業に投資を続ける他の地主貴族とは異なり、1870年代以降の農業不況にあってもこれに耐えられる家計が確立されていた。侯爵はハットフィールド・ハウスの修復に乗り出す。 他方で、彼自身の政界における立場も確固たるものになっていく。1866年に36歳でインド担当大臣に就いたのを皮切りに、1878年には外相に転任。オスマン帝国の領域をめぐる列強間の衝突(東方問題)を調整するためのベルリン会議(同年6~7月)にも出席し、ドイツの鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクとも意気投合した。 1881年から保守党貴族院指導者となり、84年に選挙法改正問題をめぐって自由党のウィリアム・グラッドストン首相と互角にわたりあった。このときの実力が認められ、翌85年の政権交代にともない、ソールズベリはついに首相にまでのぼりつめていく。 先述の通り、1886年からは自由党側がアイルランドに自治権を与えるか否かをめぐり分裂し、保守党はこれに一致して反対していたため、19世紀最後の15年ほどの大半はソールズベリが政権を担う結果となった。侯爵は3度も内閣を率い、通算では13年252日も首相を務めた。これは現時点でも歴代4番目の長さを誇る記録となっている。 さらに晩年の彼の政権は、甥(姉の子)にあたるアーサー・バルフォアや女婿のセルボーン伯爵ウィリアム・パーマーなどが入閣し、「ホテル・セシル」とも言われた。それはまさに300年前の「セシル王国」を彷彿とさせるような状況であった。3代侯爵は1902年夏にバルフォアに政権を禅譲し、翌03年に73年の生涯に幕を閉じた。