批判する人ほど彼女の思惑通りに…フランス哲学者「兵庫県知事PR会社社長は献身の証を切望している」
SNSの世界には、無垢で素朴な日常など存在しない
ゼン・ゼン・シティーは、都市の荒廃を見捨てたA級市民たちがおのおの飼育器(コンパートメント)を与えられ、眠りのなかでヴァーチャルな生を営むユートピアである。この世界を訪れた客人が、それを管理する人工知能にたずねる。「その姿が神か?」と。人工知能は応える。「神の姿は定まっていない。神はその現れる世界によって姿をかえる。その世界の望むところに。時には大いなる慈悲と恩寵を。ときには最新工作機械。また、飼育器。また経済機構にも変化する」(光瀬龍原作・萩尾望都『百億の昼と千億の夜』)。光瀬龍・萩尾望都が、人工知能をして語らせる〈神〉の概念は、私たちが、みずからの行為の究極的な意味、存在根拠をそこに見出すところの、仮想された〈第三者〉のまなざしの本質をもっとも鋭く言い当てている。 現代において、仮想された〈第三者〉のまなざしは、〝インターネット〟へと具現化する。ネットという、〝意味〟や〝存在根拠〟を供給する究極の「評価基準」–––しかも、その評価は閲覧や「いいね」やコメントの数というきわめてわかりやすい形で提供される–––は、その「評価基準」に合わせてプライベートな生活を編み、露出し、その〝託宣〟を仰ぐよう、ユーザーに要求する。それは、大手予備校が提供する偏差値算出システムが、志望校A判定に相当する偏差値を獲得するのにふさわしい学習形態に合わせて日常生活を編成せよ、模試の答案を〝献上〟してその〝託宣〟を仰ぐべし、と受験生に要求するのと、どこか似ている。SNSの世界にも、受験界にも、無垢で素朴な日常など、存在しない。
折田楓氏のSNS露出は、自己顕示欲に由来するものではない
折田楓氏は、11月14日付Instagramに、「斎藤さんのことをまずは私の周りの方にもっと知っていただければと思い、悩みながらも投稿することにしました」というコメントとともに、斎藤元彦氏とのツーショットをアップしている。精神分析家であれば、「悩みながらも」の一句に、「最初からSNSに露出する意図で撮った写真を」と翻訳されるべき指標を見ることだろう。 折田楓氏のSNS上への露出は、偏差値算出システムに対する受験生による模試の委託が自己顕示欲に由来するものではないのと同じ程度には、「自己顕示欲」に由来しない。「ブランディングとマーケティングを提供する企業の代表である才媛」というイメージで〝A判定〟を維持すべく、彼女は、購入したハイブランドの製品のお披露目の写真の、予約がとれない高級店におけるワインと料理の写真の、そして失脚した元知事を返り咲かせた自らの「手腕」を誇示する写真の、〝献上〟を強いられている。そして、ネットへと具現化している〈神〉に仕え、献身の証を切望する折田楓氏にとって、「公職選挙法」という参照体系は、まったくの〝異教世界〟でしかない。
福田肇