批判する人ほど彼女の思惑通りに…フランス哲学者「兵庫県知事PR会社社長は献身の証を切望している」
第三者のまなざしが人にさらなる快感を与える
〝何者か〟とはだれか? ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクは、アメリカのある「下品なジョーク」を引用している。 「貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クロフォード(アメリカのスーパーモデルの名前)といっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と聞く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むからズボンをはき、顔に髭(ひげ)を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解しないでくれ。おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明けるときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クロフォードと寝たんだぜ!」目撃者としてつねにそこにいるこの〈第三者〉は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。」(ジジェク(鈴木晶訳)『ラカンはこう読め』) シンディ・クロフォードと寝たというなまの事実は、それ自体では男に満足を与えない。「貧乏な田舎者」が、手の届かない「スーパーモデル」と幸運にもセックスをする妬ましい機会に恵まれたという〝意味〟を供給する究極の「評価基準」。これが私たちが暗黙のうちに仮想する〈第三者〉のまなざしである(ラカンはそれを「大文字の他者l’Autre」と呼ぶ)。 ここで銘記しておかなければならないのは、この〈第三者〉のまなざしは、妻殺しの犯人にとっての警官隊でも、サバイバル中の男にとっての打ち明け話の相手でもない、ということだ。それは、あくまで〝仮想された〟存在でしかない。警官隊や打ち明け話の相手は、そのエージェント(代理人)にすぎない。しかし、その〝仮想された〟「評価基準」があるからこそ、ある行為が「完全犯罪」という栄誉を冠せられ、ある行為が他人の妬ましさの対象となるのだ。アニメ『夏目友人帳』で、奪われた名前をもとめる妖怪たちが、それが記載されている『友人帳』に呼び寄せられて姿を現すように、〈第三者〉のまなざしは、『黒猫』の加害者や無人島に漂着した男それぞれの私秘的行為に対するステータスの付与をちらつかせ、彼らにそれを開示するようそそのかすのである。