批判する人ほど彼女の思惑通りに…フランス哲学者「兵庫県知事PR会社社長は献身の証を切望している」
11月の兵庫県知事選で当選した斎藤元彦知事の公職選挙法違反の疑いが浮上している問題で、PR会社merchuの折田楓社長が刑事告発された。同氏のSNS露出には、「自己顕示欲によるものではないか」というSNSユーザーの声が多数上がっている。その心理をフランス哲学者の福田肇氏が分析するーー。
あなたも折田楓氏の術中にはまっている
「強すぎる自己顕示欲」こんなワードが、兵庫県知事選挙において斎藤元彦氏の選挙活動を支援した、PR会社代表折田楓氏を語る言説にしばしば伴っている。斎藤氏を勝利へ導いた〝手柄〟を自慢したい欲望がアダとなって、彼の公職選挙法違反の可能性を白日のもとに晒(さら)してしまったのだ、と。 「慶應義塾大学のSFCで学び、同校と提携するフランスの名門グランゼコールESSECで経営学を修めたのち、BNPパリバに就職、しかも美人。こんな絵に描いたような世間知らずのエリートお嬢様が、公職選挙法の知識ももたないまま、ただ目立ちたいがゆえに、あまりにも無邪気にかつ無防備に、禁断のバックステージを衆人に公開するという失態を演じてしまった」というストーリー……。 確かに、折田楓氏のインスタグラムは、超一流ブランド品のお披露目や予約のとれない高級店の探訪など、〝庶民〟の手の届きそうにないキラキラした話題に溢れている。とはいえ、そもそも〝ブランディング〟のプロである折田氏の自己演出の数々に嫉妬まじりに反応し、〝過剰な自己顕示欲ゆえの滑落〟と当該案件を評するならば、あなたは、その時点ですでに折田楓氏の術中にはまっている。羨望され、嫉妬され、〝庶民〟の貧弱な解釈の水準にひきずりおろされる宿命のもとにある聖痕、それが「ラグジュアリー」だからである。
完全犯罪は「知られなければ」完全犯罪にはならない
推理作家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe, 1809-1849)の作品のひとつに、『黒猫』という有名な短編がある。 主人公の男性は、アルコール依存症から癇癪(かんしゃく)気味になり、男が虐待しようとした飼い猫をかばう妻を勢い余って殺害してしまう。男は、妻の死体を漆喰で壁に塗り込める。やがて警官数人が家宅捜索に訪れる。しかし、妻の死体はいっこうに見つからない。警官たちがあきらめて帰ろうとする刹那、男は彼らに向かって得意げに言う。「この壁は――お帰りですか? 皆さん――この壁はがんじょうにこしらえてありますよ」。そして男は、妻を塗りこめたちょうどその部分の壁を杖で強くたたいた。……次の瞬間、壁の内部からとつぜん金切り声が響く。警官隊が壁を崩すと、そこには腐乱した妻の死骸と、頭上に飼い猫の姿があった。男は、自分が妻とともに猫までをも閉じこめておいたことを、今はじめて想起したのだった……。 完全犯罪は発覚しなければ完全犯罪ではない、という逆説的な真理を、ポーの秀作は私たちに教えている。なぜなら、だれにも知られることのない犯罪は、「完全犯罪」というステータスを決して受けとることはないからである。妻の死骸のありかをわざわざ警官たちに仄めかす犯人の〝露悪的な〟行動は、まるで、「完全犯罪」という栄誉を冠しようと待機する何者かに召喚されているかのようである。