『進撃の巨人』作者・諌山創も「尊敬している」…”伝説のハガキ職人”三峯徹が語った投稿人生30年
“伝説のハガキ職人”と言われる「三峯徹」の投稿活動は、1980年代後半から現代に至るまで30年近くに及んでいる。 【確かに見たことある!】三峯様式とファンに呼ばれる美女イラスト 特筆すべきはその投稿量で、美少女漫画誌を中心にジャンルを選ばず投稿を行い、複数の雑誌に同時に、氏によるイラスト投稿が掲載され続けてきた。 三峯徹の名前こそ知らなくとも、三峯氏の独特でインパクトのある絵柄に一瞬目を奪われたことがある者も少なくないだろう。あまりに活動的でかつミステリアスな行動から「複数人いる」「実は女らしい」「編集部が描いている」など、噂が噂を呼び都市伝説化、やがて編集者からは「三峯が投稿してくれた本は潰れない」とまことしやかに囁かれるようになり「出版界の座敷わらし」「三峯の投稿があったということは、本として認められたということだ」等と言われていた。 名が広まっても表に出てくることなく、ただ投稿を続ける姿は人の心を打ち、数々のクリエイターが氏のファンとなっていった。『進撃の巨人』の作者、諫山創氏からも「尊敬している人物」と名前を挙げられており、テレビ番組『タモリ倶楽部』にも出演したリビング・リジェンドだ。 令和の現在、’90年代からのファンに加え、SNS時代になってからの新しいファンも増え、幅広い層からの支持を獲得し、’24年夏には、なんと氏の伝記漫画である『偉人画報 三峯徹』(少年画報社)が発売された。 変わりゆくメディアの中で、変わらずに活動を続けている氏が、令和の今、世界をどう見ているのか、本人を直撃した。 ◆’90年代は月間100本投稿も「家族に怒られた」 ――三峯さんが投稿を始めたのは、何がきっかけなのでしょうか。 「元々、投稿が好きだったんです。最初は文章ネタで、『ザテレビジョン』とか一般誌に投稿していました。ラジオ投稿も好きで『オールナイトニッポン』の、小山茉美さんや谷山浩子さんの日の放送を聞いて、番組に投稿したりしていました。’80年代頭の美少女漫画ブームの頃、森山塔先生という漫画家のファンになりました。森山先生のテレフォンカード目当てに、雑誌に投稿したら採用されてそれが嬉しくてさらに投稿にはまって……石ノ森章太郎先生にあこがれていて、漫画家になりたいと思っていたので、そこからイラスト投稿をはじめました」 ――投稿の醍醐味を教えてください。 「載って嬉しい、それに尽きますよね。苦労して出して載らなかったらがっかりです。でも没だと思っていたら、数ヵ月後に載っている、敗者復活してることとかあるんですよ。いろいろ、編集部の都合で、今月は投稿が少なかったな、という時に過去の没作品が載せられるという。あれ、俺出してなかったのにな、と思いながらも、いろいろあったんだな、とか考えると楽しいです。載ると嬉しいだけでなく、ほっとする、みたいな気持ちもあったり複雑な感じです」 ――これまでどれほどの頻度で投稿を? 「一番描いていた’90年代の頃で月に100本くらい。あの頃は本もいっぱいありましたしね。本を買えるだけ買って投稿していました。’15年に脳梗塞をやってしまって、その後は月20~30本くらいです。脳梗塞はとても大きかったです。職場で倒れたのですが、僕は一人暮らしですから、病気で倒れたことで連絡が家族に行ったんです。僕は投稿活動を家族にずっと隠していました。『三峯徹』はペンネームです。僕が倒れたことで、家族が洋服とか取りに僕の部屋に入ったら、ものすごく散らかってるのにまず驚かれて、そこには今まで投稿が掲載された雑誌、中にはエロ漫画誌もたくさんあるわけで、そういうのを見て怒っちゃって」 ――ご家族からの理解は得られていないのでしょうか? 「まぁ、そんなことがあって、伝記本も出て、家族だけでなくて親戚にももう全部ばれてると思うんですけど。こちらからも改めては言わないし、向こうもわかっているけれど言わないし、という感じです(笑)」 ◆三峯様式を研究するウェブサイトが作られていた ――三峯さんが世間に知られ始めたのはどういう経緯からですか? 「’90年代の半ばくらいから、雑誌編集者の方々を中心に、コミックマーケットなどで話題になって、噂が噂を呼んで広がっていたみたいです。投稿を始めてから10年は、読者にも編集者にも『下手』だと言われていたのですが、’90年代終わりくらいかな、僕を扱った同人誌が出るようになって、ネタにする人が増えた。それからネットの時代になり、三峯徹を研究するウェブサイトが作られて、そこでは僕があちこちで投稿した絵をそれぞれが持ち寄って研究されていた(笑)。それを知って、メカ音痴なんで持っていなかったパソコンを買って、自分からは書き込まないですが、見に行きましたね」 ――独特のインパクトを持つ絵柄はどうやって生み出されたのでしょうか。 「もうひたすら描き続けた結果です。自分の好きな先生方の手法や表現を真似したり取り入れたりしながら、この鼻の書き方いいなあ、とか描いていて、自分にできそうなものは取り入れて、今の絵柄になりました。よく『絵柄が30年間変わっていない』とか言われるんですが、僕からするとずいぶん変わっているんですよね(笑)。昔、僕の絵をおかずにしてくれる人いるのかな、とツイッター(元X)で聞いてみたら、一人だけ“ヌいた”と言ってくれる人がいました。いるんだ! って僕本人は喜びました(笑)」 ――絵を描いている環境は? 「完全にアナログです。顔はカブラペン、体はGペンで描いています。カブラペンのほうが使いやすいです。伊藤潤二先生が大好きで、伊藤先生がミリペンを使っているというので、僕も使おうとしましたが、筆圧でペン先が潰れてしまってだめで(笑)。デジタルに変えろ、とも言われて、僕も変えようかなと思ってはいるのですが、メカ音痴なのもあり、アナログが好きなのもあり。このまま、アナログで描き続けた最後のひとり、とかにもなりそうです(笑)。それを狙ってもいいかなと」 ――挫折したことはありますか。 「ないですが……ショックだったことはありますね。『レモンクラブ』(日本出版社)という美少女漫画雑誌で、僕が投稿してきても封筒を開けずに捨てるという“開かず組”と呼ばれる存在になっていることを、誌面に名指しで書かれたことがありました。目の前が真っ暗になりました。でも、雑誌は他にもあるんだからと投稿を続けました。何を言われても、投稿したものが載らなくても、次を描く。投稿を続けることで、落ち込みをごまかしてきた感じです。没になっても、何が悪かったか教えてもらえるわけじゃないですから、とにかく出せ、と自分に言い聞かせてやっていました。それを続けていたら逆に、雑誌の投稿欄担当さんのほうから『投稿してくれ』と連絡が来るようになったりしました(笑)」 ――没が続くと、気持ちがネガティブになったり、精神的に闇落ち状態になったりするようなことはありましたか? 「落ち込みはしますけれど、闇落ち状態になったことはないです。必死で、楽しんでやってきただけですから。没になったら他のところに投稿しなければいけなかったんで……ただ、そう言われますと、載りたかったなあという雑誌はありましたね。『コミックドルフィン』とか『COMICラッツ』(共に司書房)は『うまい人しか載せねえなあ』と思ってたなぁ(笑)。『ファンロード』(ラポート等)にはすごく載せたかった! 『ファンロード』の壁は高かったです。結局一度も掲載されませんでした」 ――これまで見てきた雑誌の中で、投稿ページの中で印象に残ったものはなんでしょう? 「どの雑誌も違った面白さがありましたが……美少女まんが誌で光彩書房さんの『COMICアットーテキ』やコアマガジンさんの『漫画ばんがいち』の投稿ページとか、好きでしたね」 ――掲載率を上げるためのテクニックがあれば教えてください。 「まず締め切りを守ること、これが第一です。まぁ間に合わなかったら、他のところに転用したりもしますが(笑)。それから、その雑誌の傾向を見ます。よく表紙に出ている芸能人のタイプを考えて、ここはあまりエロいのは載せてくれないだろうな、とか、逆に子供っぽいのはだめだな、とかは考えますね。あとは雑誌が発売する時の季節に合わせることとかは考えていました。暑いときは水着だな、とか。それと雑誌に好きな作家がいたら、楽しかったことや感想をしっかり書くと喜ばれるので、それはやっていました」 ――現在の雑誌の投稿欄はどうなっていますか? 「電子化をきっかけに投稿欄がなくなる雑誌も多いですね。『投稿欄はなくなります』という知らせを見ると、とても寂しいです。今振り返ると、Pixivが流行り始めた’00年代終わりの頃、みんなPixivにいってしまって、あの時もとてもさみしかったですね。 業界には浮き沈みがある。たとえばアダルト漫画誌ですと、宮崎勤事件があったり、松文館事件があったり、事件が起きると下火になる。時代の変化に左右されてきました。だから、電子が増えて紙が減っているとはいっても『今、たまたま下がっている時期で、いつかまた紙も上がって、投稿欄がある本も増えるだろう』と思っていたら減ったまま。仕方ないことだと思っています」 ――当時のライバル的な人は? 「いっぱいいたんですけれど、投稿を辞めたり、SNSに行ったり、プロになったり、僕だけ残されたという感じですよ(笑)」 ――三峯さんは漫画家になろうとしたことは? 「昔はなろうと思いましたが、家族に止められたというのもありましたし、あきらめまして。その代わりにイラスト投稿をやってきました。〝三峯ほうる〟という、僕の絵をパッケージに使ったオナホールをホットパワーズという会社が作ってくれて、そこに4ページの漫画を書きました(笑)」 ――『進撃の巨人』の作者、諫山創先生が、尊敬する作家の一人として、三峯さんの名前を挙げていることはご存知ですか? 「はい。諫山先生のインタビューが載っていた、とネットで見て、その発言がされている月刊マガジンを買いました。嬉しくてとても大事にしていたのですが、脳梗塞で倒れた時に部屋に入った家族が、部屋を片付ける時に捨ててしまって……あれは残しておいてほしかったなあ……」 ――雑誌の投稿欄は、昔と今で変化はありますか? 「いえ、雑誌の投稿欄は、それぞれに個性があってみんな違うので、時代によって、というのはあまり感じませんね」 ――SNSに投稿した絵に対してコメントがつく、という現象とは違いますか? 「僕にとっては全然違うんです。編集の人に届いた、わかってくれた、認めてくれたというのが嬉しくて。担当さんとのやり取りや、他の投稿者さんとの盛り上がりは、SNSにはない。時代ですからしょうがないですが」 ◆「週刊現代にも採用されました」 ――令和の今、どんな投稿をされていますか? 「秋田書店系が中心になっていますね。投稿できる雑誌を探していて、たまたま買った本に、陸井栄史さんという漫画家の方が作品の中に三峯キャラを描いて出してくださったのを見たんです。その陸井先生が今、秋田書店さんで『刃牙シリーズ』の異世界転生ものを描いていて、それがきっかけで秋田書店系の雑誌に力をいれて投稿を続けています。 あと、これまで投稿しなかったことをやりはじめまして。入院していた病院に講談社さんの『週刊現代』があって、そこに川柳講座があって投稿を募集していたので、川柳の投稿を始めました。今まで2度、載せてもらったかな?(笑)。学研さんのオカルト雑誌の『月刊ムー』など、新しいチャレンジをしています。 昔は無我夢中で投稿しまくって、投稿欄が盛り上がっていない雑誌を見つけると使命感みたいなものにかられて〝俺がこの本を支えなきゃ!〟なんて思ったこともありました(笑)。ただ、今は、そういう気持ちもなくなって、楽しんでいるだけですね」 ――最後に、これからの活動をお願いします。 「作品集を作りたいですね。コミックマーケットなどで同人誌の頒布活動をしていますので。長い間下手と言われ続けて、下手の代名詞は僕でした。それが10年くらいやって、ファンだと言ってもらえるようになって。藤子不二雄A先生の『まんが道』を出版していた少年画報社さんに伝記を出してもらえた。あ、『まんが道』には講談社さんも出てきますね(笑)。これも僕の『まんが道』なのかと。 どんなに悪口を言われても載った時は快感で、嬉しかった。それがいまだに続けられている理由だと思います。投稿はこれからも続けていきますので、見かけましたらニヤリと笑ってください。イベントなどで実物を見たらそちらも、ニヤリと笑ってください。活動については、Xを参考にしていただけたら」 撮影・文:来栖美憂(くるす・みゆう) フリーライター。人文、社会問題、サブカルチャーなどを主な守備範囲とし、雑誌・新聞・ネット等、メディアを問わず、記事の取材・執筆を中心に活躍。著書多数。
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