『ぼくのお日さま』奥山大史監督インタビュー。ハンバートハンバートの楽曲、池松壮亮との出会いが与えたもの
孤独を抱える三人の共通点、荒川の人物像
―作品に登場する三人(タクヤ、さくら、荒川)はそれぞれ孤独感があるという点で共通していますが、荒川は、仕事もあるし、パートナーもいるけれど、なんとなくちょっと浮いている存在です。どんな人物像をイメージしていましたか。 奥山:荒川役を演じている池松さんとは、レストランでご飯を食べているとき、一緒にいた方が偶然池松さんの知り合いで、ちらっとだけお話したことがありました。 『僕はイエス様が嫌い』が劇場公開はおろか、映画祭でも上映される前だったんですが、「イエス様、楽しみにしています」と言ってくださって。優しい人だなと思ったのと同時に、映画にすごく詳しい方なんだなと思って。池松さんのお芝居が好きだったので嬉しかったんですが、そのあと仕事のお話も持ちかけてくださって。 奥山:それをきっかけに再会してから、エルメスのドキュメンタリーを作ることになった際、池松さんにも被写体の1人になっていただきました。その時に池松さんの人となりが少し見えてきて、多少距離が近くなったから言える表現ですが、独特の倦怠感やどこか諦めている感じを纏っていて、それがとても魅力的に見えました。それを取り入れたいと思って書いたのが荒川というキャラクターです。 ―どこか得体の知れない感じがしますよね。 奥山:何を考えているかわからないけど、とても真っ直ぐに、誰かを大切に思っている気持ちや、優しい気持ちが伝わってくる瞬間がある。けれど、やっぱり、なぜそこまでするのかわからない瞬間もある。そんな掴めそうで、なかなか掴めない感じがぼくにとっての荒川であり、池松さんです。
理想的だったピースがバラバラになっていく
―荒川には同性のパートナーがいて、パートナーの五十嵐役を若葉竜也さんが演じています。さくらが二人の姿を見て取った行動は、物語のなかでターニングポイントとなっていますが、ショックな場面でもあると思います。当事者への無理解もですし、子どもの残酷さも感じましたが、さくらが取ってしまった行動についてはどう考えていましたか? 奥山:あの行動は、起承転結でいうところの転にあたると思います。映画の前半では、子どもながらの純粋さみたいなものを撮りたいと思いながら、後半ではその表裏一体にある、純粋ゆえの残虐性や残酷さも撮りたいと思っていました。それは『イエス様』のときも今回も変わっておらず、純粋すぎるゆえの残酷さを描くために一つひとつのセリフを考えていきました。 もう一つ考えていたことは、「みんなが仲良くなりました、幸せでした」みたいに、ピースが全部ハマって完成する映画は個人的にはあまり心に残らないんです。あと一歩で完成だったのにピースがバラバラになってしまったというほうが意外と心に残っているし、思い起こされたりする。あともう少しでやっと満足するところまでいけるぞ、というところで足元掬われるような出来事にあってどん底にいるような気分になる。そんなことが人生には良くあるじゃないですか。そんなことを考えながら、あの展開ができあがっていきました。 ―タクヤは何があったかは結局わからない状態で、ある種、みんなから置いてけぼりにされてしまいます。主人公だけれど傍観者のような立場でもありますが、はじめから意図されていたのでしょうか? 奥山:自然とそうなっていった部分もありますが、あるとすれば、『イエス様』はほぼ主人公の視点で進んでいく作品だったんですが、振り返ると大人の視点があまりにも少なかった。お母さんや先生はどう思っていたか、主人公から見たものでしかなく、あの映画はそれでよかったと思っているんですが、次に映画をつくるときは大人から見た子どもの視点を描いてみたいとも思っていました。 そこへの挑戦は初めてだったので脚本はすごく苦労しました。これは三人の視点が交錯していく物語だから主人公が見えていないことがあってもいいのかとか、そのバランス感覚は撮影中も編集中も悩んでいましたね。