「佃煮」を知らない若者たちへ 佃煮発祥の老舗を継ぐ立教大卒30歳、江戸時代と同じ味とメニューを目指して
浅草寺の門前町として栄えた江戸浅草瓦町(現在の台東区浅草橋)。江戸時代末期の1862(文久2)年、この地に初代大野佐吉が佃煮店「鮒佐」を構え、日本で初めて「佃煮」を生み出した(※諸説あり)。以来、160年以上「一子相伝」の味を守り、終戦直後から同じタレを使い続けている。父から6代目大野佐吉を継ぐため、大野真徳さん(30)は立教大を卒業後、新卒で鮒佐に入社し、修行を続ける。「佃煮」の味と文化への思いと、新たな挑戦について聞いた。 【動画】専門家に聞く「事業承継はチャンスだ。」
◆長く使い続ける秘伝のタレ
――創業して160年以上になりますが、浅草から広く展開することはないのでしょうか。 過去にのれん分けしたことはありますが、今はその店はなく、本店だけで製造・販売しています。 父とぼくだけが佃煮を作っているので、大量には作れません。 1日に煮る量には限界があります。 自分たちで面倒を見られる範囲の量でないと、質を下げることになりかねない。 第一、煮すぎるとタレが疲れてしまう。 人間と同じで、タレも休ませてあげないといけません。 ――創業以来、ずっと同じタレを使い続けているのですか? 店は、関東大震災と東京大空襲で2回焼けていますが、戦後に復興してから75~76年、同じタレをずっと使っています。 それだけ蓄積された旨みが詰まっているタレです。 この鮒佐本来の味を受け継ぎ、守り続けていくのがぼくの使命です。
◆「1」を「1.1」にすることで伝統を守る
――「味を守る」こと以外に気をつけていることはありますか? うちの場合は、「家業」と「会社」がちょっと違うように感じています。 佃煮を作るのは家業、つまり家のなりわいです。 鮒佐は佃煮発祥の店として、製法も江戸時代から変えていません。 鮒佐の味という軸は、絶対に守るべきだと思います。 一方で、経営面では伝統を守る一方、この時代に合った手法を取り入れる必要があると思います。 同時に、祖父がよく言っていた「店を継ぐなら街の歴史も継ぎなさい」という言葉も意識しています。 ――「街の歴史も」というのは、どのような意味でしょうか? 36カ所あった江戸城の門の一つ「浅草見附」が、今の浅草橋駅の近くです。 そこから浅草寺に至る参道が、現在の店の前を通る江戸通りで、土産店などで賑わっていました。 いまも近辺に老舗が多いのは、そのためです。 このあたりは、お祭りのときには江戸時代の旧町名単位で分かれます。 うちの店があるのは「瓦町」といって、瓦職人が多く住んでいた場所です。 街とともに発展してきた店ですから、街の歴史を聞き伝えていくことが店を継ぐ者の役割でもある、ということでしょう。 ――歴史ある街を担う一員としての責任も大きそうですね。 そうですね。 「浅草橋という街がまとまっていかないとダメではないか」と、4年ほど前に地域で商店街を立ち上げました。 会長は、うちの父です。 商店街が主催となって、コロナでできなかった盆踊りを5年ぶりに復活させたりしています。 街が盛り上がれば、店の発展にもつながります。 店もしっかりやりつつ、街の活性化にも取り組んでいけたらと思っています。 ――浅草橋には、やはり歴史のある老舗企業が多そうですね。 実際、法人会や商工会議所の青年部は「何代目」という後継ぎが多く、ぼくも勉強させてもらうことが多々あります。 以前、浅草のとある老舗の社長さんに、こう言われました。 「ぼくらの仕事は伝統を守ることだけど、もともとの“1”から現状維持のままでいると、時代とともに少しずつマイナスになっていく。新しい時代背景に合わせて“1”を保っていくかが大切だ。それが“1.1”や“1.2”になることもある」と。 とても印象に残っている言葉です。