CBの元祖にして伝説の始まり、ワークスマシンに勝利したベンリイCB92スーパースポーツ
日本車初の本格スポーツと呼ばれる「ベンリイCB92スーパースポーツ」。ホンダを代表する車名=CBの第一号車でもある歴史的な1台だ。しかし、紆余曲折の末、生み出された1台だった。 【画像】ベンリイCB92スーパースポーツのディテールをギャラリーで見る(10枚) 文/Webikeプラス 沼尾宏明
世界最高峰レースを目指すホンダ、その過程でCB92が生まれた
名車が揃い、現代もラインナップされ続ける「CB」は、このCB92がなければ存在しなかった。それほどエポックな1台ながら、登場に至った経緯は複雑。まずは当時の時代背景から紐解いてゆかねばならない。 1948年に創業したホンダは、わずか6年後の1954年にマン島TTレースへの出場を宣言した。当時のマン島TTは、世界GPに組み込まれ、世界最高峰レースとして位置付けられていた。 しかし海外メーカーとは性能に大きな差があった時代。同じ排気量でも3倍もの開きがあった。 そんな中、1955年、群馬県と長野県にまたがる浅間高原の道路をコースに見立てた「全日本オートバイ耐久ロードレース」が開催されることに。これは「浅間高原火山レース」とも呼ばれ、125cc、250cc、350cc、500ccという世界レースと同様のクラス設定だった。マン島参戦を目指していたホンダにとって、まさに足がかりとなるチャンスであったのだ。 記念すべき第1回にホンダは125ccのベンリイ号を改造したファクトリーマシンで挑戦するも惨敗。125クラスで勝利を収めたのはヤマハで、「赤トンボ」として知られるYA-1が1~3位を独占したのである。 出鼻をくじかれたホンダは、引き続き1957年に開催された第2回浅間高原火山レースに参加するが、またしても結果は得られなかった。翌1958年開催予定のはずだった第3回レースは翌年に延期。そこで代わりに開催されたのがアマチュア向けの『全日本モーターサイクルクラブマンレース』だ。 浅間火山レースはいわゆるワークスマシンしか宣戦できないが、クラブマンレースは市販量販車で争われるカテゴリー。これまでの屈辱を晴らすべく、渾身作として開発されたモデルこそ「ベンリイスーパースポーツCB92」である。 ※写真はホンダコレクションホール展示車両(以下同)