3000億の赤字に苦しんだ伊藤忠。なぜ「歴史ある事業」をやめる英断ができたのか
世界的な原料高騰が続く中、追い風を受ける日本の商社業界。中でも伊藤忠商事は財閥系以外の総合商社として時価総額を大きく伸ばしている。なぜ、伊藤忠は圧倒的な成長を遂げているのか。その答えの一つは、創業以来受け継がれてきた「商人」としての心構えにある。 【全画像をみる】3000億の赤字に苦しんだ伊藤忠。なぜ「歴史ある事業」をやめる英断ができたのか 本連載では、岡藤正広CEOをはじめ経営陣に受け継がれる「商人の言葉」を紐解きながら、伊藤忠商事がいかにして「商人」としての精神を現代に蘇らせ、新たな価値を生み出しているのかを深掘りしていく。 今回は、失敗した後の回復力をどう手に入れるか。また、回復力をいかに鍛えていくかを紹介する。
「組織はあっという間に弱くなる」
伊藤忠は1974年のオイルショックから80年代末までのおよそ20年間、業績が良くなかった。つぶれてもおかしくないような状態にまで陥ったのだった。 高度成長で業績を伸ばし、伊藤忠は日本有数の総合商社になった。だが、組織はあっという間に弱くなる。典型が伊藤忠だった。 その後、会社を建て直したのが丹羽宇一郎(社長時代 1998~2004年)、小林栄三(2004~2010年)、岡藤正広(CEO2010年~)の3代の社長だ。しかし、長い時間がかかった。 伊藤忠が苦しくなった理由はいくつかあった。 ひとつは同業の総合商社だった安宅産業が破綻(1977年)。それを引き受けたため、人員が膨れ上がった。 売り上げは伸びないのに安宅産業の人員を抱え込んだため、伊藤忠は大学卒新入社員を採用する余裕がなくなった。1976年からの4年間は通常の採用の4分の1の人数しかとっていない。 岡藤は1974年の入社だった。彼が4年近くも新人がやるべき受け渡しの仕事をしていたのは新入社員の採用を抑制したため、後輩が繊維部門に入ってこなかったからである。 もうひとつは石油ビジネスの川中部門に属する精油会社、東亜石油の問題だった。伊藤忠は川上部門の油田開発、川下部門のガソリンスタンドチェーン経営を手がけて結果を出していた。 そこで、川中部門に進出しようと、精油会社の東亜石油を傘下に収めたのである。だが、1973年、オイルショックとなり、日本国内では激しいインフレが発生。 インフレ抑制の策として日銀は公定歩合を9%まで引き上げた。金融引き締めの結果、景気は後退し、不況に陥った。不況は伊藤忠の石油ビジネスを直撃したのだった。 精油会社の東亜石油は原料の石油が暴騰したこと、さらにタンカーの傭船契約の失敗が重なり、赤字が膨らむ。結局、2カ所の精油所を売却することになった。 その後、1986年からはバブル経済となり、業績はよくなった。ところが、バブルが崩壊した後、多くの不良債権が残った。 高度成長以後の伊藤忠の歴史は苦闘の年月でもあった。