「父はなぜ死んだのか」 89歳父の死の理由を求めて 災害関連死の認定を待つ遺族 病院の看護記録に記された「点滴は止めないといけない」 能登半島地震から1年
能登半島地震で自宅が全壊。石川県・輪島市に住む佐藤さん(仮名)は、その後、5月の終わりまで避難生活を強いられた。89歳の父親は、地震発生から4日後に入院先の病院で帰らぬ人となった。「父が何で死んだのか知りたい」。佐藤さんは、「災害関連死」の認定を求める決断をした。 【写真で見る】震災から3日 上空から撮影した、輪島市の当時の様子 ■「また来るね」40分後に被災 その時、病院で起きたこと 2024年1月1日、石川県輪島市に住む佐藤さん(仮名)は89歳の父親が入院する病院を訪れていた。2023年春ごろに黄だんが出て以来、入退院を繰り返していたという。普通の食事はできない状態となり、点滴治療が施されていた。 午後3時半ごろ、佐藤さんは病院を離れた。 「また来るね」 それが最後の会話だった。 約40分後の午後4時10分ごろ、震度7の地震が能登半島を襲う。佐藤さんは家族と急いで山の上に避難、その後、夜のうちに避難所となった体育館に移動した。しかし、父親が入院する病院には電話が通じない。安否が分からないまま3日が経過した。 病院に電話が通じたのは1月4日。「容体がよくない」「次に着信があった時には危篤とご理解ください」と告げられた。そしてその翌日の夕方、病院から電話があった。 「容体が急変しました。病院に来てください」 崩壊した道路を40分ほどかけて歩く。しかし、佐藤さんが病院にたどり着いた時には、父親は既に息を引き取っていた。死亡診断書を受け取る際、医師からは「地震がなければもう少し生きられたのに」と言われたという。 佐藤さん 「最後に父親に会った時には、まさか亡くなるとは思っていませんでした。『外傷はなかった』と病院からは説明がありましたが・・・」 発災から間もない1月5日、病院のエレベーターホールは放置されたストレッチャーだらけだったと佐藤さんは振り返る。 佐藤さん 「本当に混乱した状態でした。あの状況で巡回など、果たしてできたのでしょうか」 ■書類を取り寄せて知った事実「点滴は止めないといけない」 避難生活中に周囲の人と話をしていると、父親が亡くなったのは「災害関連死では?」と言われたという。