日本で食べ歩きに熱中するタミル人男性 なつかし「母の味」
タブーなき外食ライフ 妻も「道連れ」に
ムトゥさんはおいしいものに出会うと自分一人で独占するのではなく、誰かと共有したくなるタイプのようだ。根っからのオススメ主義者なのである。そしてこの「素晴らしい味を皆に知ってもらいたい」というあふれる情熱は、まず最初に最も身近な存在である妻のビサリさんに向けられる。それは西葛西に本店を持つ、スパイス・ラー麺卍力(まんりき)でもそうだった。 「スープがまるでタミルのラッサムのようだと感じたんです。食べたあとフッと鼻に抜けるあの感じ。あれを一人でも多くのインド人にも共有してもらいたいと思い、手はじめに妻を誘いました」 「6回ほど一緒に食べに通ったあと正直に告白したんです。『ここのスープには豚が入っているよ』って」 ヒンドゥー教徒にとって豚を食べるのはタブーの一つである。ビサリさんは怒らなかったのだろうか。 「ええ、もちろんちょっとショックでした。まさか私が豚をって。でもおいしいから抵抗なくて(笑)。その後もよく食べに行っています」 豚だけではない。なんと二人で焼き肉屋まで行くことがあるそうだ。 「牛肉食は罪だとヒンドゥー教ではいいますが、私に言わせればこの和牛の美味を知らずして人生を終えることの方が大きな罪ですよ!」 タブーなき日本の外食ライフを謳歌しているかにみえるムトゥさん。しかし、それらを家に持ち込むことは決してないという。 「家には家の、外には外の役割がありルールがあります。例えばビリヤニという料理はもともとイスラム教徒の料理だった。今ではイスラム教徒の店にビリヤニを食べに行くヒンドゥー教徒は多いです。逆にヒンドゥー教徒の作る料理を食べに来るイスラム教徒もいる。それぞれが異なる料理や文化を持つからこそ相手を敬い、お互いを尊重する。垣根はあった方がいいんです」 『お家で簡単! プロの味』などというキャッチコピーが氾濫(はんらん)する昨今。しかし本当のプロの味はプロの店で、逆にお家の味はお家でしか味わえないというのがムトゥさんの確固とした信念だ。フードマニアであるがゆえに生じる、プロや家庭の料理人への強いリスペクトの念。一人の食べ歩き好きとして、その高い意識には私も大いに共感するところがあった。 ■著者プロフィール 小林真樹 インド食器輸入業 インド食器・調理器具の輸入販売業を主体とする有限会社アジアハンター代表。1990年頃からインド渡航を開始し、その後も毎年長期滞在。現在は商売を通じて国内のインド料理店と深く関わっている。最大の関心事はインド亜大陸の食文化。著書に『日本の中のインド亜大陸食紀行』『日本のインド・ネパール料理店』(阿佐ヶ谷書院)『食べ歩くインド』(旅行人)。最新刊は『インドの台所』(作品社)。
朝日新聞社