日本で食べ歩きに熱中するタミル人男性 なつかし「母の味」
「ビーフを食べた」若き日の反逆心
ムトゥさんはインド南部、タミル・ナードゥ州の州都チェンナイ市北部にあるマナーリー地区で生まれ育った。 「海に近く漁師が多い街で、自宅近くまで行商に来るので、フレッシュな魚には不自由しませんでしたよ」 食べ歩き好きのムトゥさんは、日本国内のインド料理店事情にも精通している。その知識量はハンパなく、ちょっとやそっとの日本人の食べ歩きマニアの比ではない。私自身教えてもらうことも多々。そんなフードマニアに成長したのには、ムトゥさんの少年時代の周辺環境によるところが大きいらしい。 「友だちに食堂の子どもが多かったんです。彼らのウチに遊びに行くと、必然的に食べものと出会う。そこから興味を持ったんだと思います」 大学に入り、親元を離れて一人暮らしをはじめるようになるとそのフードマニアぶりはいよいよ加速する。 「初めてビーフを食べたのもその頃ですね。もちろん未知なる味への興味があったからですが、一つは社会に対する反抗というか。若者がヤンチャなことをしてイキがったりするのと同じなんです」 「たばこや酒もそうですが、ボクたちヒンドゥーの場合は『ビーフを食べる』というのがある種の反抗のシンボルになるんです」 音楽や文学作品のテーマとして幾度となく描かれてきた、既存社会への青き反逆心。それがいつの時代も若者の特権であることは洋の東西を問わない。ただそれがインドにおけるヒンドゥー教徒の場合、バイクや飲酒のほかに「ビーフを食べること」まで含まれるのがお国柄。国が変われば反逆のシンボルもまた変わるのである。
「日本人が作るインド料理」を探究
そんな青春時代を謳歌(おうか)していたムトゥさんもやがて就職。入社したIT企業は日本の会社と業務提携していた。ムトゥさんは東京の提携先への派遣が決まり、そこではじめて日本語を習いはじめる。 「日本についてはそれまで全く知らなくて。真面目な国民性と、東京が超近代的な未来都市っていうイメージぐらいしかありませんでした」 数カ月の研修を終えて2013年に初来日。配属された派遣先の所在地は、東京は東京でも八王子市の郊外だった。 「ビックリしましたよ。どんな未来都市が広がっているかと思ったら畑と山ばっかりで(笑)。むしろチェンナイの方が都会らしかったほどです」 派遣先近くに借り上げられたアパートのワンルームで、同僚と3人の共同生活がはじまった。 「会社とアパートを往復するだけの毎日でした。夜は3人同じ部屋に布団を敷いて、並んで寝るんです。周りに遊ぶところもないからお金はたまりますよね。ただ毎日の食事はツラかった。3人のうち唯一、料理の心得のある先輩がスープを作るんですが、毎日ほぼ同じ味。近くにインネパ店はありましたが『何コレ?』っていうレベル」 フードマニアで鳴らしたムトゥさんにとって、共同生活は苦痛だった。ほどなくして近くの公団住宅に部屋を借り、一人暮らしをはじめる。さらにお気に入りの店も見つかった。 「インドに仕送りするため月に一度、都心にあるインド系の銀行に行ってたんです。当時はネットバンキングが今のように使えなかったので。その帰り道に八重洲のダバインディア(現在は閉店)に寄るのが楽しみで」 やがてムトゥさんの興味は、「日本人が作るインド料理」へと移っていく。 「やはり八重洲のエリックサウスにはじめて食べに行った時、この味はインド人が作っているに違いないと思ったんです。それが、スタッフが全員日本人だと知ってビックリして。言われてみれば、確かに作る過程がシステマチックでした。調理人の勘に頼るインドの作り方とはずいぶん違うなと思って」 こうして日本人の店に関心を持つようになったムトゥさん。中でも衝撃的だったのは北新宿のモンカリーだった。 「卵アチャールが素晴らしくて。黄身がトロッとした半熟なんですよ。生卵を食べないインドではあり得ないゆで方なんですが、これがまたスパイシーなカレーにとても合うんです」 ムトゥさんの熱弁に心動かされ、後日私もモンカリーを訪問。ムトゥさんの表現に誇張はなく、半熟卵とスパイシーなカレーとの組み合わせは実においしかった。