現役時代には「悪童」 偏差値70名門からプロへ…左膝に手を「イライラになる原因」【インタビュー】
川崎で6シーズン在籍もタイトル獲れず「優勝はしたかった」
森が川崎に在籍していたのは2005年から10年までの6シーズン。この間、リーグ戦で3度、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で2度の準優勝を経験しながらも結局優勝を手にすることはできなかった。 「優勝はしたかったですね」 J1でプレーしたのは2010年の川崎が最後。だから、森はJ1の優勝とは縁がなかった。 川崎から離れたあと「経営が苦しくてお金はそんなになかったですけど、でもヴェルディ好きなやつらが集まってた」という当時J2の古巣に戻り、やりがいを感じつつプレー。「正直J1も狙えるかなという感じで」プレーしていた森を悩ませ続けたのが古傷の膝だった。 「フロンターレの時もそうでしたけど、膝の怪我が思うようにいかなくて。フロンターレで手術した時(2008年)ぐらいから膝は一気にガクッと落ちて、ダメになって、全然戻ってこなかったんで。その歯痒さもありながらも、6年、7年ぐらいは一応ベストの状態ではなかったですけど、なんとかだましだましできて。でも、最後のほうは、年齢的にも身体が動かなくなるから。悪かったのは膝だけだったんですけど、思ったとおりに身体が動かないのが歯痒かったですね、ずっと。それもイライラになる原因でした」 膝の痛みに耐え、練習していた姿はよく見かけた。痛い左膝を頻繁に手で押さえていた。そんな膝の怪我とは高校時代からの付き合いだったという。 「もう高校の時からずっとそうだったので。週一ぐらいで新幹線に乗って浜松まで治療のために通っていたので。プロになって1年目にすぐに手術して。半月板で。そこからは本当に、ベストな状態に戻ることは一回もなかったですね。やっぱり高校の時が一番、身体が動いていたかなと思います」 痛かった膝は「曲げ伸ばしができない。まっすぐ伸びないし、曲がらないし。そうすると、可動域が出ないから、蹴る、走る時の動力もなくなる」という状態になる。痛み止めの注射が欠かせなかったという森は、「でも、普通だったら、かばったらどこか悪くなるけど、その時本当におかげさまで膝だけだったから、まだやってこれたかなという感じでした」と耐え抜いた自らの身体に感謝の言葉を掛けていた。 森はその後、FC岐阜、SC相模原でのプレーを経て、現役の最後は2018年の沖縄SVで迎えた。そこから指導者としてのセカンドキャリアが始まった。 [プロフィール] 森 勇介(もり・ゆうすけ)/1980年7月24日生まれ、静岡県出身。清水東高―ヴェルディ川崎―ベガルタ仙台―京都パープルサンガ―川崎フロンターレ―東京ヴェルディ―FC岐阜―SC相模原―沖縄SV。現役時代は闘志あふれるプレースタイルで、主にサイドバックとして活躍。2018年に現役引退し、指導者の道へ。今季から川崎U-15生田コーチに就任した。 [著者プロフィール] 江藤高志(えとう・たかし)/大分県出身。サッカーライター特異地の中津市に生まれ育つ。04年にJ's GOALの川崎担当記者に就任。15年からフロンターレ専門Webマガジン『川崎フットボールアディクト』を開設し、編集長として運営。
江藤高志 / Takashi Eto