鮨職人・幸後綿衣「鮨って“人間性”が出る。そこが厳しくて、おもしろいところです」
── そこで、踏み止まれたのは? 幸後 行き詰まっていた時に、当時の親方・中澤圭二さんの勧めで「西麻布 拓」に移ったんです。ここは夜の営業だけで、女性のホールスタッフもいて柔らかい雰囲気もあって、自分に合っていました。ワインも置いていたので、その勉強も始めました。少し時間に余裕ができたので、朝は他の人より早くお店に行って勉強して、 週1日の休みには学校へ通ってソムリエの資格もとりました。体力面で挫折しかけたので、それ以外で、私が他の人に勝てるものを作りたかったんです。 その後、「すし匠」で二番手だった新井祐一さんが独立されることになり、声をかけていただいたので「鮨 あらい」に移りました。
鮨から離れて、ワーキングホリデーで渡仏。それをきっかけに腹がくくれました
── 「鮨 あらい」での修業は、順調でしたか? 幸後 尊敬していた新井さんのもとで、自分なりに一生懸命やっていましたが、しばらくすると、やはり迷いを感じてしまって。それで仕事を1年休んで、フランスにワーキングホリデーに行きました。ここで一度、鮨職人の世界を離れてみて、ワインについて思いきり学んだことで、日本にいた頃にやっていた鮨の仕事が、改めて好きになれたんです。 フランスでは、ブルゴーニュのボーヌという街にあるの「コロンビエール」というワインバーで働いていたのですが、そこは世界中からワイン好きが集まるし、生産者の人も来る。ワインリストも辞書みたいな厚さで、日々、多くのワインについて勉強できました。そういう環境に身をおくと、ワインの作り手のこともよく分かるようになって、「こういう思考の作り手のワインだから、こんな味だろう」と、栓を開けなくても味の想像がつくようになってきました。 それって、鮨の世界にも通じるものがあるんですね。例えば「新井さんが握った小肌だから、 こういう味だろう」と食べる前に想像できる。ワインも鮨も、作り手の考え方、人間性が出るというか。
そうして本場でワインの知識が深まるほどに、「やっぱり、自分は鮨職人だ」と思い直すようになった。 フランスのパーティーで、ワインの生産者に鮨を握ってあげると喜ばれるし、そのうえでワインの見識もあると、言葉が話せなくても気持ちが通じる。そういう自分っていいな、と思えた。 夕方、仕事を終えてほっと寛ぐという働き方も体験して、「自分の好きなことをして、自由に働いていいんだ」と感じられたことも、よかったですね。 ── フランス行きが、大きな転機になったのですね。 幸後 そうですね。それから「鮨 あらい」に戻って、職場の環境は変わっていなかったんですが、私自身が変わったので、すごく自由な気持ちで働けるようになりました。「鮨職人として絶対生きていこう」という覚悟が決まって、実はその頃に「小肌」のタトゥーも入れたんですよ。