横浜市電の元車掌が語る、びっくりエピソード! 「入ると助役が…」営業所の風呂場は検査場だった!?
近年、低公害・省エネで環境に優しく、また少子高齢化社会を前提とするコンパクトシティ構想とも親和性が高いことから、路面電車(低床型車両を用いた次世代型路面電車=LRT)が見直される気運が高まっているが、およそ半世紀前の日本の多くの都市では、路面電車が活躍していた。 当時の首都圏における路面電車の代表格といえば東京都電と横浜市電。横浜市電とはどのような路線だったのか。以下、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜 著、2024年10月神奈川新聞社 刊)から、横浜市電の運行に携わった元職員へのインタビューを一部抜粋してお届けする。 【画像】昭和30年代の「電車運転系統図」。現在の市バスと同様、市電にも運転系統があった
◆営業所の風呂場は検査場?
市電が最盛期を迎えていた1956(昭和31)年4月に交通局へ入局し、車掌・運転手を合わせて14年間務めた相原政行さん(86)は、「男性の車掌が採用されたのは私たちが最後。運転手に任命されたのも、後にはいなかった」という市電乗務員の最後の世代。 「つらいこともあったが、ずっと横浜市民の足として親しまれていた市電の運行に携われてよかった」と微笑む相原さんに、市電のハンドルを握っていた当時の記憶を語ってもらった。(2024年5月21日、年齢は取材時) ――相原さんが交通局に入られた1956(昭和31)年頃の市電は、どんな様子でしたか 相原:私が入ったのが4月2日。その前日に市電最後の延伸となった井土ヶ谷線(保土ヶ谷橋-通町一丁目間)が開通して、路線長としては最盛期(51.79km)を迎えました。お客さんも多かったですよ。まだまだ市電が元気な時代でした。だから、10数年後に市電がなくなるなんて、そのときは夢にも思いませんでした。 ――最初は車掌として、どの営業所に配属になったのですか 相原:教習所に入って10日間くらい座学を受けて、それから生麦へ配属になって、しばらくは師匠について、見習いをやりました。勤務形態としては早番(始発から)と遅番(終電まで)のほかに中休勤務っていうのがありました。 朝・夕のラッシュを担当する役割で、昼間は家に帰っていいというシフトです。午前10時頃にいったん抜けて、また午後の3時半頃に出勤しなけりゃならない。 ――それだと、うかうか昼寝もできないですね 相原:そうなんですよ。だから、私はよく生麦駅前にあった映画館に行きました。当時、映画は55円だったと記憶してますが、ピッタリのお金を持ってね。車掌も運転手も公金を扱う仕事だから、営業所には自分のお金を持ち込めないんです。だから午後の出勤のときは、すっからかんになって行かなきゃならない。 ――お金に関しては、検査も厳しかったと聞いたことがあります 相原:よくご存知ですね。嫌だったのが営業所のお風呂。寮暮らしで、銭湯代もバカにならないと思っていたので、営業所にお風呂があると聞いて、そりゃ助かると喜んだんです。ところが、お風呂といっても、実は体のいい検査場だったんですよ。 ――検査場ですか 相原:そう。勤務が終わってお風呂に入るでしょ。そうすると助役が、脱いだ服に小銭が残ってないか、検査するんですよ。風呂場は入口と出口が別々になっていて、検査が終わった服が、カゴごとすき間から出口側へ送られる仕組みでした。あれは、嫌な気分になりましたね。もちろん、女性の服も女性の事務員が検査してました。