横浜市電の元車掌が語る、びっくりエピソード! 「入ると助役が…」営業所の風呂場は検査場だった!?
◆長時間乗務、食事やトイレはどうしていたのか?
――お金が持ち歩けないとなると、食事なんかはどうしたのですか 相原:食券と金券を給料からの天引きで買うんです。食堂のほか、売店も金券で払うシステムです。現金と一緒なので、とにかく落とさないように気をつけましたね。 あと、食事に関しては、交代のことを気にしながらなので、どうしても早食いになりがちで、胃下垂になる人が多かった。胃を持ち上げるコルセットみたいなのが流行ってましたよ。 ――長い乗務だと、トイレも気になりますね 相原:当時、一番長かったのが、3系統(生麦-山元町)の補充(注:混雑対策などで走らせ、「3補」のように表示)で、生麦-山元町-横浜駅前-山元町-生麦という経路で運行するのがありました。このM字型運行を別名「大山」とも言ったんですが、だいたい210分かかる。 もちろん、営業所と終点の山元町にはトイレがありますが、1度、横浜駅の辺りでどうしても、トイレに行きたくて我慢ができなくなりましてね。運転手に事情を伝えると、「折り返してくるまでの間に行ってこい」ということになって、急いで交番に駆け込んだことがあります。 ――ほかに車掌の仕事としては、どんなところが大変でしたか 相原:満員の、しかも揺れる車内で切符を切るのは大変でした。特に冬は今よりも寒かったから、手がかじかんでね。私の時代は片道13円という半端な運賃だったので、かじかんだ手で釣り銭を渡したり、切符にパンチを入れるのがつらかった。 あと、次の停留場に着いても、混雑で後ろに戻れなくなることもよくあった。運転台から降りて外を駆けて後ろへ戻って、外からは扉が開かないので、お客さんに「すみません」と頼んで開けてもらったり。 それから、片側3扉の大型ボギー車には、中央扉に中部車掌(補助車掌)が乗ってたんですが、私が入局する2カ月前にそれが廃止になったんです。だから、中央扉(自動ドア)は、後部で車掌が操作して開閉したのですが、安全確認のため、雪が降ろうが嵐になろうが身を乗り出して側面を見なければならない。もう、ずぶ濡れでしたよ。 ――中部車掌は合理化のために廃止されたと聞きましたが、それによって後部車掌の負担が増えたわけですね 相原:そうですね。特に、“ドル箱”と言われた3系統なんかは、ラッシュ時は始発の山元町で、すでに満員で、日の出町一丁目でわーっと降りるわけです。京急線に乗り換えていたのでしょう。 そういう状態だから、到着してすぐに入口専用の中央扉も開けて、降ろさざるを得ないわけですが、もう定期券の確認もなにもできたものじゃなかった。お客さんへのサービスの面でも、不正乗車防止の観点からも、どうにかならないものかと疑問に思ってました。