大阪・淀川 日本治水史の物語を一望する <門井慶喜の史々周国>
もっとも、江戸時代のこの川にも、大きな問題があった。大坂の街のなかを流れたということである。なるほどそれは船の荷物の上げ下ろしがしやすい利点をもたらしたが、その反面、水害の被害を大きくもした。
台風のときなど、人口稠密(ちゅうみつ)の地がそっくり泥の海と化すのである。これは江戸時代にはとうとう解決できなかったので、解決したのは、近代に入ってからである。
具体的には、但馬出身の土木技師・沖野忠雄がこれに当たった。
そもそも淀川というのは京都のほうから西流してきて、大阪市街の北東部、毛馬(けま)の地でいったん南に方向を変えてから、また西へ曲がり、市内を貫通して大阪湾へそそぐ。沖野はその毛馬から西へまっすぐ、もう一本の川を引くことで、市内へ流れ込む量を減らしたのだった。
すなわち放水路の新設である。この国家的な―またしても国家的な―大工事は明治二十九(一八九六)年に始められ、四十三(一九一〇)年に完成した。じつに十四年もかかったのである。この直線的な放水路は、当時は「新淀川」と呼ばれたが、現在の地図では「淀川」となって、すっかり本流たる地位を確立している。私たちは普段ほとんど意識しないけれども、大阪駅から北に向かう電車や地下鉄に乗ると、まず渡る大きな川、あれはこのときの完全に人工的な建造物なのである。
現在、淀川べりには、いろいろ探訪のよすががある。大阪府寝屋川市の茨田堤の碑。守口市の文禄堤の遺構。そうして毛馬ちかくの公園には沖野忠雄の銅像が立つ。
あの古代のひょうたんの人柱から近代的開削工事まで、その気になれば、一日のうちに日本治水史を通観することができる。