大阪・淀川 日本治水史の物語を一望する <門井慶喜の史々周国>
淀川の歴史は、古い。 「日本書紀」にも登場する。仁徳天皇十一年十月、淀川の水害を防ぐため、現在の大阪府寝屋川市あたりに茨田堤(まんだのつつみ)という堤防が築かれることになった。 途中、工事がむつかしかった。築いても築いても崩れてしまう。そこで天皇は神託を受け、武蔵の人コワクビと河内の人コロモノコのふたりを生贄(いけにえ)にしようとした。 いわゆる人柱である。コワクビは泣きながら水に入って死んだけれども、コロモノコはひょうたんを投げ入れて、「川の神よ。もし私の命がほしいなら、このひょうたんを沈めてみろ。沈んだら私は死んでみせよう。だが沈められぬなら、お前は偽物の神ということ。従うわけにはいかん」 ひょうたんは、川に浮いた。コロモノコは犠牲になることなく、堤防も無事に完成したのである、うんぬん。 この史実(?)から、私たちは多くのものを得ることができる。人間やっぱり機転は大事だとか、あるいはまた、古代では関東の人間はよほど馬鹿(ばか)にされていたのかとか。とにかく仁徳天皇の治世、ということは桓武天皇による平安京遷都のはるか以前にもうこの川ではこんな国家的なプロジェクトが実行されたのである。 とはいえ、このころは、おそらく堤防はぶつぎれだったろう。川すじが現在とは違って一本道ではなく、何本もの支流がだらだらと裳裾(もすそ)のように広がっていたからである。堤防は必要な場所だけ溢水(いっすい)を防ぐ、一種の霞堤(かすみづつみ)のごときものしか築き得なかった。 それが一千年以上もあとになり、戦国時代という土木技術の大発達期を経て、淀川は、ようやく豊臣氏により川すじが一本にまとめられた。 堤防もぶつぎれではなく線状のものになり、隙間がなくなった。いわゆる文禄堤である。これは単なる水害の抑止をこえて、特に物流面において効果がいちじるしかった。江戸時代に入ると京都(厳密にはその南郊の伏見)大坂間の船の行き来がしやすくなり、大量の貨物が送受されたのである。 例の茨田の地のごときは大坂に近く、畑が多いので、採れた野菜が次々と船に積まれて出荷された。近郊農業のはしりである。大坂の船の出入りというと、日本海と瀬戸内海を覆う全国規模の物流の大動脈、いわゆる西廻り航路を連想する向きも多いだろうが、しかしそれはあくまでも「天下の台所」、全国の商品に値段をつけるという市場機能を支えるものであって、基本的には、大坂で直接消費される荷を運び込むものではない。淀川は、大坂の市民にとっては重要なビタミンの補給路だったのである。