仏紙襲撃テロに見る「表現の自由」と「宗教の価値観」尊重のバランス 国際政治学者・六辻彰二
少なくとも、基本的人権として表現の自由が保障されたからこそ、権威や権力を揶揄する風刺画が発表できるようになったことは確かです。表現の自由は、原理としても歴史的にも、「権力や権威をもたない弱者を強者の支配から解放する」ものとして発達したといえるでしょう。
「強者の支配を強化する原理」としての表現の自由
しかし、表現の自由には二面性があります。表現の自由は時に「弱者に異議申し立ての機会を保障する原理」になる一方、別のシーンでは「強者の支配を強化する原理」にもなり得るのです。 1894年、フランス軍のアルフレッド・ドレフュス大尉が、ドイツに軍事機密を漏洩した罪で逮捕・投獄されました。事件発覚後、彼がユダヤ人だったことから、フランスのほとんどの新聞はドレフュス個人だけでなく、ラビ(ユダヤ教聖職者)を含むユダヤ人全体を悪魔化したイメージの風刺画を多く掲載しました。しかし、これは全くの冤罪で、当初から一部のひとが証拠のないことを指摘していたにもかかわらず、ほとんどのジャーナリストはユダヤ人差別を助長する旗振り役になったのです。 当時、フランスは普仏戦争(1870-71)で敗れた直後でした。ドイツへの敵対心からナショナリズムが噴出する一方、折から発生した金融危機のなかで生活が苦しさを増していました。この状況下、金融業を握るユダヤ人への反感と憎悪を背景に「ドレフュス事件」は発生したのです。 民主主義が発達するにつれ、多数者が影響力をもつことになります。19世紀末のフランスなどヨーロッパでユダヤ人は概して経済的に富裕だったものの、中世以来の偏見もあり、周囲との軋轢を避けざるを得ないなか、表立った自己主張は、はばかられる立場でした。この背景のもと、意見表明をあまり躊躇しなくてよい一般フランス人を基盤とするネガティブなイメージの洪水は、ユダヤ人からの異議申し立てを、より難しくしたといえるでしょう。世論やメディアの暗部を示す古典的事例であるドレフュス事件は、表現の自由が少数者を抑圧し得ることをも物語ります。