「哲学」のレンズを通して「世界」をまなざす…QuizKnock・田村正資による初連載!
哲学の研究をしながら、QuizKnockの運営会社batonで事業開発を手がける田村正資さんの初連載「あいまいな世界の愛し方」が文芸誌『群像』でスタート!日常のふとした瞬間について、哲学のレンズを通して考えるエッセイ連載です。第1回の冒頭部分試し読みを『群像』2025年1月号より再編集してお届けします。
大学2年生のある朝
街ですれ違うひとりひとりに何十年分かの人生があって、僕にとってと同じように、その人にとってはそれがすべてなのだ、ということをまじめに想像しようとすると、脳が頭から溢れ出すような気分になる。 心が物のように場所を取るものであったなら、街にはどんどん肥大化する人々の心がひしめきあって、お互いのからだをすり潰してしまうだろう。今日もこの街があるのは、私たちの心が、私たちの見ている世界と同じ大きさを持つものではないからだ。 私たちの心は私たちのからだであって、その外側にも世界は広がっている。しかし、そのなかで起きていることを私たちはよく知らない。私たちは実のところ、心の外側にも内側にも無関心だ。だから、心の大きさというものを見誤ってしまう。 * 大学2年生のある朝、同棲していたパートナーのアパートで別れを告げられた。まだ頭がぼんやりとしたまま「うん」と返事をすると、彼女はそのまま家を出て講義へと向かった。いましがた二人のものではなくなった部屋にひとりでいることの奇妙さに促されるように、僕も大学に行く準備を始めた。大学は同じだが、1年ほど前からそれぞれ違うキャンパスに通っていた。 その日は、野矢茂樹による分析哲学の講義があった。たしかウィトゲンシュタインをメイントピックに据えた講義で、前期の代表作『論理哲学論考』の写像理論について扱っていた。写像理論において、この世界と私たちの用いる(科学的に有意味な)言語はピタリと対応する。 そのことを野矢先生は、「引っ越しをするときに、ミニチュアを使って家具の配置を考えるようなものですよ」と説明していた。新しい家にどんなふうに家具を配置したらいいか、いろんな可能性を検証してみたい。でも、実際の家で本棚や机をあっちこっち動かしてまわるのはとんでもなく大変だ。そもそも、この家に入るサイズのベッドなのかどうかちゃんと確かめてから買わないと無駄になってしまうかもしれない。 だから、ミニチュアを使って考えてみる。同じ縮尺で作った小さな模型を使えば、たいした労力をかけずにいろんなレイアウトを検証できる。「やっぱりテレビとソファはこの場所に置くのがしっくりくる」。納得してようやく、本物の家に荷物を運び込んで配置する。 「ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で考える世界と言葉の関係は、本物の家とミニチュアの関係として理解することができる」。つまり、ミニチュアとしての言葉のいろんな配置を試してみることで、世界の在り方についてあれこれ検証することができるのだ。 野矢先生の講義はとても面白かった。ただ、その日だけはその語りがまったく頭のなかに入ってこない。哲学的な言葉で解き明かされていく世界から、自分の居場所がなくなってしまったようだった。こんなことを学んで一体何になるのか。哲学を熱心に学ぶ教室の雰囲気と、そこに入り込めない自分の両方がいたたまれなくなって、途中退室した。