南進する勝家と封鎖徹底した秀吉 戦略を投影する陣城群/賤ヶ岳の戦いの城②
【連載】城旅へようこそ
< 分子構造式のような設計に身震い! 勝家の本陣・玄蕃尾城 賤ヶ岳の戦いの城 ①>から続く 【画像】もっと写真を見る(10枚) 前回は、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにおける柴田勝家の本陣、玄蕃尾城(げんばおじょう、内中尾山城)を紹介した。実は、賤ヶ岳の戦いでは勝家と羽柴(豊臣)秀吉が余呉(よご)湖周辺にそれぞれ無数の陣城(臨時の城)を構築して対峙(たいじ)していた。江戸中期の地誌「近江輿地志略(おうみよちしりゃく)」には20もの砦(とりで)が記され、現在でもその多くがよく残っている。これらの陣城は規模やつくりがさまざまに異なるが、配置や構造の特徴を探ることで、双方の戦略をも知ることができる。今回は、賤ヶ岳の戦いの経緯と陣城群が語る戦況・戦略を紹介したい。
信長亡き後の主導権闘争
賤ヶ岳の戦いは、織田信長亡き後の主導権を争って勝家と秀吉が激突した戦いだ。その実態は、織田家の家督争いをめぐる信長の次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝の最終決戦でもあったといえる。 1582(天正10)年6月2日に本能寺の変で信長が横死すると、同13日に秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討伐。同27日には、織田家の4人の重臣(柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興)が集められ、織田家の継承問題と領地再配分を決める清洲会議が開かれた。 清洲会議では、家督相続をめぐる意見の対立はなかった。信長の後継者である嫡男(ちゃくなん)・信忠は、信長とともに本能寺の変で自害。となれば、嫡流(ちゃくりゅう)である信忠の子で信長の孫・三法師(さんぼうし、後の織田秀信)が後を継ぐのは当然だった。勝家と秀吉の関係が険悪化したのはその後のことで、三男・信孝の振る舞いから織田家中が分裂し、信雄との不仲も顕在化。それに乗じて、信雄を推挙する秀吉と信孝の烏帽子(えぼし)親(※)であった勝家との亀裂が深まっていった。 ※武家の男子が元服する際、烏帽子をかぶらせて烏帽子名をつける仮の親のこと ただし、少なくとも秀吉は清洲会議の時点で打倒・勝家を画策していたとみられる。秀吉が会議の2日前に美濃の国衆に宛てた書状には、反逆人である光秀を自分が成敗したこと、それにより近江の治安が回復したことなどを強調した上で人質を要請している。つまり、信長の後継者として主導権を握るべく、美濃の国衆を取り込もうとしていた。 一方の勝家も、着々と準備していたようだ。玄蕃尾城を見ても、あれだけのつくり込みにはそれなりの日数が必要なはずで、京進出の軍事拠点とすべく早々に着手していたのであろう。