南進する勝家と封鎖徹底した秀吉 戦略を投影する陣城群/賤ヶ岳の戦いの城②
“戦上手”秀吉の誘発
前述した4月3日付の書状には、勝家軍の情勢をよく観察し余裕を持って決戦に挑むべき、とも記される。勝家軍は4月4日に神明山砦、5日に東野山砦を攻め、その2日間に惣構を攻撃している。まさに突破口を開かんとする軍事行動が行われ、秀吉軍が秀吉の狙い通りにそれを冷静に撃退していたことがわかる。 これを踏まえると、4月20~21日の決戦も秀吉のシナリオのうちに思えてくる。20日未明、勝家方の佐久間盛政は、尾根伝いに秀吉の砦群を迂回(うかい)して、余呉湖畔経由で第二防衛ラインの大岩山砦を急襲。う回して敵の中央を強行突破する、リスクの高い戦法「中入り」に打って出た。 陥落の知らせを受けた秀吉は、美濃・大垣から約52キロを5時間あまりで引き返し(大垣大返し)、退却する盛政を追撃。定説では秀吉の驚異的な撤退劇が勝因ともされるが、実は秀吉が戦線を離れたのも勝家軍を誘発するためという見解がある。たしかに、秀吉は播磨へ兵を動かすと書状に記したものの、実際には赴いていない。播磨の代わりに美濃へ向かったとも考えられ、そうであれば、大返しもそれなりに想定していた可能性がある。一時的に近江を離れることで敵を油断させ進軍を促す戦略だったなら、やはり‘戦上手‘と感服するしかない。 もちろん、大岩山砦で中川清秀が討ち死にしたことは想定外であったろうし、信孝の岐阜城での再起や大垣での足止めも予想外だったかもしれない。秀吉が総攻撃をしかけた後も勝家軍は奮闘しており、前田利家の戦線離脱がなければ勝機もあったろう。利家の突然の離脱もさまざまな臆測を呼ぶところではあるが、結果的に勝家軍は総崩れとなり、勝家自身も玄蕃尾城から退却。4月24日、居城の北ノ庄城(福井市)で自刃して果てた。 勝家と秀吉は、実際にそれぞれどのような陣城を構築していたのだろうか。次回は、見学することができる両軍の陣城をいくつか取り上げて、特徴や見どころをご紹介したい。 (文・写真 萩原さちこ / 朝日新聞デジタル「&Travel」)
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