南進する勝家と封鎖徹底した秀吉 戦略を投影する陣城群/賤ヶ岳の戦いの城②
長浜城を手放した秀吉の深慮遠謀
清洲会議の際、信長の筆頭宿老だった勝家と秀吉の立場はすでに逆転していたようだ。越中で上杉氏と交戦していた勝家は、信長の弔い合戦となる山崎の戦いに参戦できなかった。山崎の戦いで明智光秀を討伐した秀吉の功績は絶大で、絶対的な発言力を得ていたらしい。 清洲会議で秀吉が多くの遺領を得たのに対し、勝家は自領の越前に加え秀吉の近江・長浜を得るにとどまっている。かなり思い入れがあったはずの長浜をあっさり勝家に譲ったのも、秀吉の戦略のひとつだったのだろうか。 長浜は秀吉が信長から与えられ、初めて城持ちになった地。信長の「長」の字をとって地名を「今浜」から「長浜」に変えたほどだった。 勝家はすぐさま甥(おい)の柴田勝豊を長浜城(滋賀県長浜市)に入れているが、秀吉は12月14日または15日には攻め落としている。水面下での戦いを経た、決戦の幕開けである。このとき長浜城の開城に応じた勝豊の家臣たちが、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍の前線となる神明山砦や堂木山砦を守っていることにも、秀吉の策略のうまさを感じずにいられない。 深雪が解けはじめた1583(天正11)年2月、勝家が本格的に北近江に進軍。秀吉は勝家に味方した滝川一益を攻撃すべく、2月10日から北伊勢を攻めていた。 3月12日、秀吉は長浜城に、勝家は玄蕃尾城に着陣。その直後、秀吉が砦群による防衛ラインを見直していることに注目しておきたい。天神山砦と今市上砦でつなぐ第一防衛ラインがあまりに勝家軍に近いため、1.5キロ南側に最前線を後退させたらしいのだ。 これにより、茂山砦・神明山砦・堂木山砦が置かれた尾根と北国街道(ほっこくかいどう)を挟んだ東野山城の尾根が第一防衛ライン、余呉湖南側から派生する賤ヶ岳砦・大岩山砦・岩崎山砦の尾根が第二防衛ラインになったとみられる。その背後の木之本に実質的な本陣となる田上山城が築かれ、秀吉の実弟である羽柴秀長が入った。秀吉の長浜城までは距離があるため、中間地点にある小谷城の福寿丸や山崎丸(長浜市)を改修した可能性もある。前線が突破されたときの備えとして、秀吉は北国脇往還を見下ろす横山城(長浜市)にまで改修の手を入れるよう指示を出していたようで、北城には手を入れた気配がある。