南進する勝家と封鎖徹底した秀吉 戦略を投影する陣城群/賤ヶ岳の戦いの城②
南進する勝家 封鎖を徹底した秀吉
勝家軍のおもな陣城は、玄蕃尾城を本陣として、行市山砦に佐久間盛政、そこから派生する尾根筋に前田利家・利長父子が入った別所山砦・中谷山砦・林谷山砦、橡谷山砦・柏谷砦・大谷山砦などを築いた。 双方の陣城を地形図にマッピングするとおもしろいほど等間隔にあり、点である尾根上の砦をつないで線にすることで、おのずと防衛ラインが浮かび上がってくる。戦いが立体的に見えてきて、戦略を読み解くヒントになる。 秀吉の陣城群で注目したいのが、第一防衛ラインが北国街道を挟んでいることだ。そして驚くことに、秀吉は北国街道がもっとも狭くなる堂木山の隘路(あいろ)に防御壁をつくり「惣構(そうがまえ)」を構築していた。現在も、2本の土塁を確認することができる。つまり、秀吉は北国街道を南下してくる勝家軍に対して強靭(きょうじん)な封鎖線を構築していたのである。おそらく、江戸中期の「賤ヶ岳合戦図屏風(びょうぶ)」に描かれているように、隘路を柵列で塞いでいたのだろう。 重要なのは、秀吉がこの惣構を最前線として重要視していたことだ。4月3日付で弟・秀長に宛てた書状には、惣構の外に向けて鉄砲を撃たないこと、草刈りに至るまで外に出ないことを具体的に指示している。小競り合いで決戦の火ぶたが切られることのないよう、最前線に慎重な行動と我慢を強いているのである。 秀吉が惣構での行動を厳しく注意したところに、双方の陣城群の様相の違いをひもとくヒントがある。後述するが、秀吉の陣城がつくり込まれているのに対して、勝家の陣城は技巧性に乏しい城が多い印象がある。これはおそらく、戦いの目的や陣城の用途が違うからなのだ。 勝家の目的は、伊勢の滝川一益らと結束して京を占拠することにあった。つまり、北近江は南進中の通過点でしかない。だから、少なくとも初期段階では戦闘的な陣城を必要としなかったのだろう。勝家は信長のもとで実戦経験を積み築城技術を磨いてきた精鋭で、玄蕃尾城の信長流といえる秀逸な縄張(設計)を見ても、技術力がなかったとは考えられない。築けなかったのではなく、築かなかったと考えるのが妥当だろう。 一方、秀吉の目的は、勝家の南下を阻止することだ。勝家を食い止めさえすれば勝ちなのだ。だからこそ、進軍路となる北国街道の封鎖を重視し、突破戦に耐えしのげる陣城を構築した。3月付の秀長宛ての書状には、最前線に追加の軍勢を送り兵の駐屯地を整備させる指示もある。 勝家の勝利が秀吉軍を突破した先にしかないならば、足止めされ時間が経つほど劣勢に追い込まれていく。戦線の膠着(こうちゃく)状態にしびれを切らして動くまでは、決してこちらから火種をつくってはならない――。秀吉がこれを見越した上で、陣城群の整備と前線への指示を徹底していたとしたら、もはや“戦上手”としかいいようがない。