「胎児を含めた8人が喰い殺された」最恐ヒグマ「三毛別事件」…「稀代の凶悪熊」を討ち取った伝説のハンター「山本兵吉」の知られざる事実
東北の出身
山本兵吉の「改製原戸籍」によれば、兵吉の出生は安政五年(一八五八年)十一月二十一日。事件当時は五十八歳であった。父「卯之吉」、母「ムメ」の長男として生まれ、三人の弟(兵作、慶蔵、泰蔵)と二人の妹(ツナ、ミサ)の六人兄妹だった。卯之吉については明治二十二年十二月に死去したこと以外に、まったく記録がない。しかし筆者の手元に興味深い新聞記事がある。 「留萌郡鬼鹿村の吉田幸次郎氏は、村の書記を勤めていたが、神経麻痺で腰が抜け、立ち居も自由にならない重症となり、親類縁故もないので、万事懇意にする同村、山本宇之吉の家で世話を受けていたが、同地慈善家の住吉為右衛門ら六,七名の諸氏が慈善金を募集して三,四十円も集まった(後略)」(『北海道毎日新聞』明治二十一年十二月十四日 抄訳) 記事にある山本宇之吉は、兵吉の父、卯之吉で間違いないだろう。世話好きな好人物であったことが伺える。母ムメについては山形県南村山郡の出身で、昭和四年に函館市谷地頭で死去している。享年八十九歳だった。彼女の「死亡届出人」として「同居者 岩崎仁作」の名前が記載されている。この人物の近縁者が、「三毛別事件」の冒頭に登場する「岩崎金蔵」ではないかと思われるが、これについては後に触れる。 兵吉の本籍は「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」。出生地については「原戸籍により出生事項を知ることあたわざるにつき、その記載省略」となっている。戸籍法の制定が明治四年なので、それ以前のことは「わからない」ということだが、当時の世相を考えると、母ムメが山形県南村山郡の出身ならば、父の卯之助も同郷と考えるのが自然である。とすれば兵吉も山形県で生まれた可能性が高いのではないか。東北、北陸地方は、江戸時代から北前船を通してつながりが深かったから、北海道への移住は自然な流れと言える。 中編記事『「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」』へ続く。
中山 茂大(ノンフィクション作家)