「胎児を含めた8人が喰い殺された」最恐ヒグマ「三毛別事件」…「稀代の凶悪熊」を討ち取った伝説のハンター「山本兵吉」の知られざる事実
この12月に事件発生から109年目を迎える「三毛別事件」。その被害を食い止めたハンターの知られざる足跡を『神々の復讐』(講談社刊)の著者中山茂大氏が追った。 【マンガ】「しすぎたらバカになるぞ…」母の再婚相手から性的虐待を受けた女性が絶句
胎児を含めた8人が喰い殺された
日本史上最悪の人喰い熊事件として知られる「苫前三毛別事件」。大正四年十二月九日に発生し、二日間にわたって七名(胎児を含めると八名)が犠牲となった、前代未聞の獣害事件である。 加害熊は「袈裟懸け」と呼ばれる、特徴的な毛並みを持った金毛熊で、頭部が異様に大きかったと伝えられる。この加害熊が、事件発生以前に雨龍方面で農婦や少年を喰い殺していた可能性について拙著『神々の復讐』(講談社刊)で述べたが、それはともかく、この稀代の凶悪熊も、天塩地方で名の知られた熊撃ち猟師、山本兵吉によって見事に討ち取られたことは、よく知られている。しかし兵吉自身の素性については、これまでほとんど語られることがなかった。 今回、筆者は兵吉の直孫にあたる山本隆巳氏を訪ね、原戸籍などの関係資料を閲覧させていただいた。 そこには兵吉の知られざる来歴が記されていた。
300頭のヒグマを斃した
まずは文献に残る山本兵吉に関する記録を見てみよう。 三毛別事件を綿密に調査した木村盛武は、『獣害史上最大の惨劇 苫前羆事件』(苫前町郷土資料館)の中で、兵吉について次のように記している。 「先陣のなかに、鬼鹿村オンネの沢の住人で鉄砲撃ちでは天塩国にこの人ありとうわさされた有名な老マタギ「宗谷のアンチャン」こと山本兵吉(五十七歳)がいた。彼は三百頭ものヒグマをものにし、エゾライチョウ、エゾリスなども実弾で撃ち落とすほどの達人で、サハリン(旧樺太)にいた若い頃サバサキでヒグマを刺し殺したので、「宗谷のサバサキの兄」とも呼ばれていた。いつも軍帽を離さず、日露戦争の戦利品と称する銃を駆使して山野をくまなく歩き回った」 次は『苫前町史』に記されている兵吉の記述である。 「ところで天塩(国)にこの人ありとマタギ(狩人)仲間でその名も高い山本兵吉老(六五歳)は、借金のかたに鉄砲を入質し、猟を休んでいたが、九日の事件を耳にして口惜しがり、十日夜、苦面して鉄砲を手元にした彼は、鬼鹿村オンネの沢の自宅を発ち、六線沢に向かった」(『苫前町史』) 戸川幸雄の小説『羆風』にも、上記とほぼ同じ内容の記述がある。兵吉については、「彼は腕も度胸もあって、こんなときにはなくてはならぬ存在だが、酒好きがきずで、この時は鉄砲を質に入れて飲んでしまって勢子の方に回っていた」と記している。 彼の酒癖の悪さについては吉村昭の『羆嵐』にもある通りだが、その一方で面倒見がよく、優しい人物であったと伝えられる。