中日ブルペンのリーダーに! 藤嶋健人が高校時代に語っていた「熱すぎるチーム愛」
11月26日、中日の藤嶋 健人投手(東邦)が契約更改交渉を行い、2400万円増の7000万円で更改した。 藤嶋は今季、チーム&自己最多の56試合に登板し、防御率は驚異の1.07。夏場には28試合連続無失点を記録するなど、安定感抜群の投球を見せ、チームの勝ちパターンで投入されるセットアッパーになった。「殻を破れた気がする」と藤嶋は来季への自信をのぞかせた。 【動画インタビュー】藤嶋健人(東邦・侍ジャパンU-18代表) そんな藤嶋の高校2年冬に行ったインタビューを再掲載する。ドラゴンズのブルペンリーダーになれそうな責任感の強さを感じる言葉が並んでいる。彼のリーダーシップが低迷を続ける中日の起爆剤になることを期待したい。 (インタビュー初掲2015年12月21日) *********************************** 投打ともに才能が高く評価され始めている東邦の藤嶋 健人投手。1年夏に甲子園に出場し、140キロ台の速球を投げ込み鮮烈なデビューを飾った藤嶋。2015年夏は甲子園出場を逃したが、主将でエースとなったこの秋は、東海大会優勝を果たし、明治神宮大会出場。明治神宮大会では初戦の秀岳館戦で2失点完投、2本塁打を放つなど、投打で活躍を見せた。今回は、全国でも注目度の高い藤嶋に、これまでの大会の振り返り、さらに2016年に向けての意気込みを伺いました。
無我夢中で投げた1年夏
東三河ボーイズ出身で、入学時から最速140キロ。打撃力もあった藤嶋は入学時から注目されていた。 そしてその名が全国的にクローズアップされたのは1年夏の豊川戦。豊川はその年の選抜ベスト4という強敵だった。この試合、どんな意気込みで臨んだのだろうか。 「高校に入って最初に臨む夏の大会。相手は選抜ベスト4ということで、すごい相手とやらなければならないと思いましたが、マウンドを任されている以上、1年生とか関係なく、攻める気持ちでいこうと思っていました」 攻める気持ち。それは東邦の森田 泰弘監督が評価している部分でもある。 「大舞台でも動じず、そして強い敵になれば燃える闘争心。これはなかなか身に付けるのが難しいのですが、藤嶋は最初からそれが備わっていましたし、大事な試合でも任すことができました」と絶大な信頼を置く。 藤嶋は持ち前の強気の投球で常時140キロ台の直球とキレのあるスライダーで押すピッチングを見せる。とても高校1年生とは思えない素晴らしい投げっぷりに、豊川打線は封じ込められた。そんな1年生投手の快投に打線も応え、3回表に2点を先制。4回裏に1点を失ったが、その後も打線は藤嶋を援護した。6対1で迎えた9回裏に2ランホームランを打たれたが、3失点完投。 選抜ベスト4・豊川の春夏連続甲子園出場を阻止したのが1年生投手ということもあって、藤嶋の名が大きくクローズアップされた。 藤嶋の快投はなおも続く。決勝の栄徳戦で先発すると、初回から全力投球。 「ダメだったら3年生の大井 友登さんに頼むしかないと思ったので、それまではいけるところまでいこうと思いました」 その心がけが良かったのかは分からないが、藤嶋はこの試合も140キロ台の直球を勢いよく投げ込んでいき、何と栄徳打線から11三振を奪い、2失点完投勝利で、チームを2008年以来の夏の甲子園出場に導く。まさに立役者ともいって良い活躍を見せたのだった。 1年生ながら常時140キロ台連発するなど、ここまでのスピードボールが投げられたのは木下達生コーチの指導があった。 「入学時はただ投げていただけだったのですが、木下コーチから投球のこと、フォームのこと、トレーニングのことまで様々なことを教えていただき、成長できたと思います」 入学時からの成長と、夏の愛知大会で掴んだ自信を胸に藤嶋は1年生ながら甲子園のマウンドに臨んだのであった。 迎えた甲子園。1回戦の日南学園戦で先発のマウンドに上がった藤嶋。甲子園のマウンドに立つ前は緊張していたが、森田 泰弘監督から「負けてもいいから楽しんで来い」と声をかけられて楽になった。 マウンドから見える甲子園の景色は、テレビで見るものとはまた別物だった。「気持ちよかったですね」と振り返る。 ピッチングを振り返れば、甲子園でも愛知大会と同様、140キロ台の直球、スライダーのコンビネーションで日南学園戦では8回3失点の好投を見せる。打ち取るたびに雄叫びを上げる姿が話題になったが、藤嶋自身は意識して声を上げたわけではなかったようだ。 「自分は気持ちを込めて投げるタイプなので、自然と声を上げていたのだと思います」 続く日本文理戦では5回まで無失点の好投に抑えていたが、6回に集中打を浴びて逆転を許し2回戦敗退となった。 甲子園2試合の投球から、1年後、2年後の成長が楽しみという声が多くあがった。しかし夏の甲子園が終わってから1年間は、苦しい投球が続いた。