野党は何を恐れていたのか――地底から「家の空気」・天上から「個室の大衆」
ジャーナリズムの凋落
まず、全世界的にジャーナリズム、ジャーナリストの力が凋落していることがある。 マスコミを「第四の権力(階級)」としたのは『フランス革命の省察』を書いた保守派の論客エドマンド・バークであるが、活字ジャーナリズムによる知的市民の形成が近代民主主義と軌を一にして進んできたことはまちがいない。しかしこのところ、そういった進歩主義的な潮流に変化が生じている。人権、平等、国際協調といった公的原理より、国家、民族、宗教など集団の利益を優先する傾向が顕著で、それに並行して、大手新聞社やテレビ局など、既存のジャーナリズムに対する批判が強くなっている。そこにインターネットという新しい言論のツールが絡んでいることは想像に難くない。 活字からテレビへ、テレビからネットへという、メディアの変遷が、「ジャーナリズムの時代」に代わる「大衆発信の時代」をもたらし、日本のマスコミも野党も、その状況に戸惑っているのかもしれない。むしろ安倍政権の方が、そういったメディアの変化に敏感であるようだ。 こうした状況の中、政治の世界にも、マスコミの世界にも、学者評論家の世界にも、本格的な論客というものがいなくなっている。舌鋒鋭く、論理明快、知識も情報も申し分ないという論者もいるにはいるのだが、これもむしろ安倍政権に近いところにいるような気がする。
復活する「家社会」
とはいえ、欧米の政治と選挙が沈滞しているわけではなさそうだ。むしろ、トランプ大統領のツイッター、移民難民の問題、EUからの離脱などを巡って過熱している。参院選における議論の沈滞には、日本社会独特の事情が作用しているのではないか。今の日本には、特に国際関係における選択に関して、政治的な議論を尽くすよりも、「議論」を「異論」と考えてそれ自体を封印するような、一体感を重視する「ものを言えない空気」が復活しているように思える。 拙著『「家」と「やど」―建築からの文化論』(朝日新聞社)に書いたように日本社会は、大小各種の「家」という枠組みで構成されている。家の中で意見を言うのは家長すなわち家の秩序に逆らうことであり、家の秩序にしたがって内部にいれば面倒を見てもらえるが、逆らえば外に出され、外から内には入りにくいという「家社会」である。 日本の民主主義は、「個人の権利」を核とするのではなく「家の秩序」を基本とする「家の民主主義」なのだ。僕は、前にこれを天皇制(他国では王制)を残す「保留民主制」とも表現したが、野党が怖れたのは、この日本国の「家の空気」ではないか。特に、現在の日本を取り巻いている東アジアの国際関係には、「家社会」では議論しにくい微妙な問題が多いのかもしれない。