野党は何を恐れていたのか――地底から「家の空気」・天上から「個室の大衆」
「個室の大衆」による「ホンネの民意」
安倍政権の特徴として、これまでは比較的中立だった新聞やテレビが、親安倍、反安倍に分かれていることがある。そしてもう一つ、そういった既成のメディアよりインターネットにシンパが多いことがある。 活字の時代には、その文章に現れる思想信条と政策によって政治家や政党が選ばれた。テレビの時代には、画面に現れる人柄から政治家を判断するようになり、政治の大衆化が進行した。しかしテレビの前の大衆は、いわば「茶の間の大衆」であり、一つの場に老若男女が会し、そこに形成される民意にはそれなりの公共性があって、ある種のタテマエが守られていた。 これに対してネット社会の大衆は「個室の大衆」である。その個人的な空間のモニターに現れる民意、キーボードで直接的に叩き出される民意には、公的なタテマエを離れた集団的利益のホンネがむき出しになる。安倍政権の政策は、そういった国民の集団的利益に寄り添うところがあるのだ。 野党と既成のメディアが、平和主義、国際協調、基本的人権といった公的な理念にもとづく議論を戦わせないのは、このネット社会に膨れ上がるホンネの民意を恐れていたのではないか。そしてそれは彼らがこれまで、政治家としての、あるいはジャーナリストしての熱い魂よりも、平和な社会のタテマエの理念の上に安閑とすることを選んできたからではないか。
BS番組に見る民主主義の可能性
つまり現代日本の政治状況は、家社会という昔からの文化と、インターネットという新しい文化とが融合した空気の中にある。その新旧文化の融合という点では、海外も同様であろう。ヨーロッパやアメリカでも、イスラム世界でも、中国やロシアやインドでも、現代の政治状況は、人種や宗教に関わる昔からの文化と、インターネットという新しい文化とがミックスした空気の中にある。その新旧融合の中で、フランス革命以来の、自由、平等、人権、国際協調という普遍的な価値観が埋没しつつあり、野党もマスコミも、そこに明確な批判軸を見出すことができないでいるのではないか。 文化とは、地の底から湧き上がってくるマグマのようなものとしての古い文化と、天上から降り注ぐ放射線(宇宙線)のようなものとしての新しい文化の融合であり、連続しながらも常に変化するものだ。 この空気の中で、政治議論が活発なのは、テレビのBS番組あるいは多様化したラジオ放送ではないか。むしろこういったマイナーな選択的メディアに、新しい民主主義の可能性が開けているとも思える。その視聴者は「茶の間の大衆」と「個室の大衆」との中間的なところにいるからだ。