後一条天皇の即位で<国母><皇太子の母>となる彰子。それでも実際は「道長の権威の一部分」に過ぎず…その理由とは
大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は彰子の地位と影響力について、新刊『女たちの平安後期』をもとに、日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。 『光る君へ』<私を何だとお思いでございますか!><俺のそばにいろ>道長と行成のやりとりに悶える視聴者。このとき副音声で語られていた行成の心境とは… * * * * * * * ◆彰子の地位 妍子が産んだのは期待された皇子ではなく、禎子内親王であった。 道長は大変不機嫌だったというが、彰子にしてみればまずは一安心というところだろう。 妍子はその後も子供をもうけることができず、三条天皇も5年で譲位した。 そして彰子の子の後一条天皇が即位する。 とりあえず彰子の地位は守られた。
◆危険性があったものの…… もっともまだ危険性はあった。 三条天皇自身が冷泉天皇から弟の円融天皇への譲位の後で産まれた子、つまり上皇の皇子から即位した天皇だからである。 三条上皇と妍子に男子が産まれれば、道長が彼を推す可能性は十分にあった。 しかし三条天皇は譲位後まもなく亡くなり、皇太子に立てられた敦明親王(母は藤原済時の娘すけ子<「すけ」は女へんに成>)が道長の圧力によってその座を辞退して、彰子の第二皇子の敦良親王(後朱雀天皇)が皇太子になる。
◆敦明親王の東宮辞退について 『御堂関白記』寛仁元年(1017)8月6日条には、敦明親王の東宮辞退について、天皇(おそらく摂政頼通)から諮問を受けた道長は、皇后宮(彰子)・左大臣(藤原顕光)はなんと申されていますかと問い、「宮は不快なり。左大臣は、『心に任せよ』」といったとの回答を得た。 藤原顕光は「お心のままにすればよろしいでしょう」と同意したのに対し、彰子は不快感を示し、さらに「皇太后宮に此の由を啓す。其の気色、云ふべきに非ず」と、道長からの直接の報告にも、大変不満があったとする。 彰子は道長の強引な手法に批判的で、道長もそのことについてかなり気は遣った書き方をしているようである。 要するに摂政である息子の頼通より、天皇の母である彰子が怖いのである。
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