選挙をおもちゃにする人々が教えてくれること
もちろんこれは政治汚職だ。民主国家なら、汚職には法的な規制がかかっている。検察や警察といった監察の機能が正常なら、利益を求めて政治に接近する側もそれに応じる政治の側も相応の刑事罰を受けることになる。報道の自由が機能していれば、それは衆知のこととなり、刑事罰の上に社会的制裁が加算される。もちろん次の選挙での政権維持も危うくなる。 だから、逆コースを選んだ政治は、権力を使い、政治主導などの理由を付けて監察機能を抑え込む。あるいは軽減税率などの利益誘導策で報道を懐柔する。 さらに、なるべく自分たちが権力の座から陥落することがないように、あれこれと策を弄し甘言を巡らし屁理屈(へりくつ)をこねくり、政治改革という言葉を旗頭にして政権側が有利な選挙制度に変えていこうとする。 「ゲリマンダー」という言葉がある。自分らが有利になるように選挙区の区割りを行うことだ。19世紀初頭、米マサチューセッツ州のエルブリッジ・ゲリー知事が自分が所属する民主共和党(現民主党)が有利になるように選挙区を区割りした。結果、選挙区は大変不自然な形になり、あたかもサラマンダー(火竜:架空の生き物)のようにも見えたことから、ゲリーとサラマンダーで、不自然で不公正な選挙区割りを意味するゲリマンダーという言葉が生まれた。 ゲリマンダーは中学校の公民の教科書にも登場する。システマテチックな不公正の初歩の初歩だ。その後ありとあらゆる「選挙を実態として骨抜きにして、権力を維持し続けるための技法」が開発・実用化されてきた。ある意味それは選挙制度の歴史でもある。 が、選挙を骨抜きにすると権力が固定化し、民主主義は形骸化して社会の腐敗が進行する。社会が腐敗すれば、経済の活力は衰える。すると政治はますます利権に固執するようになるし、“お友達”や“お仲間”は衰える経済の中で利益を確保するために、より一層政治に擦り寄るようになる。いかに報道を懐柔しても実態が漏れ聞こえるようになれば、国民の支持は離れ、政治はますます“お友達”や“お仲間”の持ってくる組織票に依存するようになる。 こうなると国は衰退ルートに入ってしまう。 正直なところ私の付け焼き刃の勉強では、「この問題を解決するには、このようにすればいい」というようなすぱっとした回答はとてもではないが出せない。ただし、「選挙制度は、それ単体で存在し、機能するものではなく、選挙制度を持つ共同体の風土と不可分である」ということは言えるのではないか。 ●日本には中選挙区制が合っていた? 日本の選挙制度は普通選挙法が制定された1925年から小選挙区比例代表制に移行する直前の1993年まで、中選挙区を採用してきた。中選挙区では、1つの選挙区から3~5人の議員を選出する。 なぜ70年近く、中選挙区制度が維持され続けてきたかといえば、それが日本の風土に合っていたからだろう。 中選挙区制なら、1つの選挙区の中での死に票が少なくなる。「あいつの推した候補は当選したのに、自分の推した候補は落ちた」ということが減るのだ。つまり、同一選挙区内での反目やあつれきは小さくなる。 比較的小さな地域の共同体の中で、相互に濃密な関係を持ちつつ生きてきた人々にとって、中選挙区制とは地域共同体の中での対立を過度に激化させないという点で好都合だったのだ。 作曲家の黛敏郎(1929~97)と指揮者の岩城宏之(1932~2006)は、政治的姿勢は正反対だったがそれとは別に2人の友情は終生続いた。黛の代表作の多くは岩城によって世界初演されたし、黛の大作オペラ「金閣寺」の日本初公演では、2人そろってテレビCMに出演して公演に必要な資金を稼いだ。右翼的政治姿勢をあらわにしたことでコンサート用音楽の仕事が減ってしまった黛に、オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督を務めていた岩城は、オーケストラ向け新曲の作曲を依頼した。新曲「パッサカリア」を完成させる前に黛は他界したが、未完の遺作となった「パッサカリア」は岩城とオーケストラ・アンサンブル金沢によって初演された。さらに岩城は、黛の追悼コンサートでも、指揮台に立った。 が、こうやって友情を維持できたのは、2人とも「政治信条と友情は別」と弁(わきま)えていたからだ。なかなかこのように振る舞える人は少ない。 その意味では、ほどほどの対立と共存を生み出す中選挙区制は、「黛と岩城ほどには人間ができていない、我々のための制度」だったのだ。