「黒歴史も、会社の恥部も遠慮せずに書いてください」作家が驚愕したトヨタ・章男会長の「破天荒」と会社愛
不遇の社長だった喜一郎の無念を晴らす
『トヨタの子』の前半では、主に喜一郎の青年期が描かれる。逆風ばかりだった国産自動車製造の黎明期など、史実に基づきつつ、たびたびタイムスリップで現れる章男との印象的なやりとりに読み手は引きこまれる。「新東京水上警察」シリーズや「海蝶」シリーズで知られる、吉川さん高い取材力と構成力が発揮されている。 「トヨタの歴史の基本的なところは押さえていますが、喜一郎さんのキャラクターは、読者に共感を持ってもらうため、だいぶ現代風にアレンジしています。情に厚くて部下には優しい、権力にはなびかず、現場で自分の手を汚して働く、熱血タイプのビジネスマン。実際の喜一郎さんは現場の人には優しいが、幹部には厳しくて、家庭的な人でもなかったらしいですけれど、仲間を何より大切にしていた根っこの部分は、変えていないと思います。 喜一郎さんは会社内の労働争議の責任を取る形で、社長を退きます。経営者としては道半ばで、悔しかったでしょうね。また、時代にも恵まれませんでした。国産自動車の大量生産が可能になりそうだった頃に戦争が起き、会社のリソースが奪われました。決して経営の才能がなかったわけではなく、あの時代には誰が社長をやっても、うまくいかなかったでしょう。トヨタ本体がまとめた喜一郎さんの正伝では、彼の晩年の計り知れない無念がうかがえます。でも間違いなく、喜一郎さんの挑戦がなかったら、戦後にモータリゼーションの押し寄せるなかトヨタが躍進し、日本に自動車産業が根づいていく歴史は、あり得なかったはずです。 『トヨタの子』では、喜一郎さんが苦しかっただろう時代に、たびたび章男と出会い、前向きな気持ちを奮い立たせる姿を描きました。創作ではあるけれど、少しでも喜一郎さんの無念が晴れてくれていたらいいと思います」
タイムスリップしそうな経営者
章男の時空移動には、いくつかの法則がある。そのひとつが、別の人物の体に意識が成り代わるというもの。年齢や男女に関係なく、成り代わる相手も章男は選べないという決まりがあるようだ。タイムスリップ小説のジャンルに求められる、読み手を飽きさせないルールが随所にちりばめられている。 「喜一郎が航行中の大型客船で出会った、女性のキャサリンに章男がタイムスリップで入ったときは、文面の表記を“キャサリン章男”としています。映像で見たらキャサリンが演技しているだけで、それほど面白くはないけれど、小説だと字面も含めて面白くなりますね。そういった小説ならではの魅力を利用できて、章男会長ご本人にも、面白がっていただけました」 物語の後半は、紆余曲折を経ながら章男がトヨタのトップへ上がっていく過程を、タイムスリップによる喜一郎との交感をからめて描かれる。周囲との軋轢や、社内政治争い。恵まれた環境にいるはずの御曹司が、思い通りにならない現実に苦しみ、それでも「トヨタの子」である自分自身と仲間たちのために「クルマが好きだから」と志を貫く様は、ビジネスマンの熱い成長物語としても胸を打たれる。 「本作を書く前は、私の抱いていた章男会長のイメージは、豊田家の長男として生まれた、お坊ちゃんの社長でしょう? というぐらい。けれど評伝や資料を読んだり、実際にご本人とお会いしてみると、本当に権力者っぽくない、人間として面白い経営者なんだなと印象を改めました。 例えば少し前に、トヨタの協力会社で、システムがダウンするトラブルが起きたそうです。どうやら海外からのサイバー攻撃だったようなんですけれど、トヨタに部品が卸せなくなって、現場は大混乱しました。そのとき章男会長はすぐその会社に直接出向いて、スタッフたちに「大丈夫だから!」と激励の声を掛けたそうです。本社のトップが、わざわざ協力会社の現場にやって来るのは本当に珍しくて、現場の皆さんはすごく勇気づけられたと言います。 そういった現場重視のエピソードが、章男会長って本当に多いんです。権力や政治には関心がなくて、クルマをつくる環境を、一番大切にされている。現場の力というものを、心から信用しているビジネスマンだと思います」 『トヨタの子』では章男が1990年代半ばにUVIS(中古車画像検索システム)を立ち上げるなど、IT革命を先見する才覚も描かれる。物資も情報も欧米に遠く及ばなかった昭和初期に、未来の車社会を信じていた喜一郎譲りと言えそうだ。 「章男会長のIT戦略も最初は社内で支持されなくて、喜一郎さんと同じように悔しかったでしょうね。どんなに影響力のある経営者でも、ビジネスは思い通りにならないことだらけ。それでも挫けずに、前へ進んでいく『トヨタの子』たちの原動力は何だろう、ということを考えながら書き進めていました」