「黒歴史も、会社の恥部も遠慮せずに書いてください」作家が驚愕したトヨタ・章男会長の「破天荒」と会社愛
会長から直々にタイムスリップの提案
吉川さんは小説を構想するにあたり、トヨタ自動車へ取材を実施する。トヨタでは本作のために立ち上げられた取材担当チームが対応した。その後、トヨタ側の担当チームとのやりとりのなかで、『トヨタの子』は豊田喜一郎(トヨタ自動車創業者)から章男(現トヨタ自動車会長)への三代にわたる継承の物語へとシフトチェンジしていく。また、単なる伝記ではなく章男が時空を移動して、祖父たちの時代に現れる、大胆なSF風味の設定が加わった。 「本作は、若い人と女性に読んでもらえる伝記にしたい気持ちがあったんです。伝記ものが好きな読者は割と年齢層が上というイメージですし、私自身これまで警察小説や公安組織などを描いた作品が多く、若い人や女性の読者には敬遠されがちだなと感じています。その辺りの読者層を今回は開拓しておきたくて、ヤングアダルトのジャンルで流行っている、異世界転生をベースにしたタイムリープ(タイムスリップ)の設定を新たに考えました。 私がデビューした頃に、お世話になった石田衣良先生が異世界転生もの(『DT転生 ~30歳まで童貞で転生したら、史上最強の魔法使いになりました! ~』 )の原作で話題になっていたことも、後押しになりました」 もうひとつタイムスリップの設定に大きく関わったのは、豊田章男氏の言葉だったという。 「最初にまとめたプロットでは、女性目線を加えた伝記物語を考えていましたが、章男会長からトヨタの担当チームを通じて『豊田章男が過去に戻る話はどうか? 』という提案をされたんです。正直、戸惑いました。私としては喜一郎さんの時代をベースに、車に対してネガティブだった主人公が車を好きになっていく、王道パターンの話を構想していたのですが、章男会長が出てくるとなると現代までのトヨタの歴史を網羅しないといけません。調べなくてはいけない資料が膨大になりますし、喜一郎さんの伝記という軸も、ぶれるように感じました。 あと、私自身が章男会長に興味がなかったのですね。いまはそんなことはないのですけど、トヨタの御曹司だからトップになれた人で、小説で描いても幅広い読者の共感を得られる人物にはならないと、最初の頃は思っていました。章男会長がタイムスリップする話の提案を受けてから、チームの方と何度もやりとりして、結構厳しい口調で意見を返しました。オブラートには包みましたが、章男会長ご本人に『あなたの人生には誰も共感できない』と伝わるような言い方もした覚えがあります。 すると担当チームのある方から、返答をいただきました。『うちの社長(当時)は時々、突拍子もないようなことを言うんです。でも、社長が先頭に立って、本気でそれをやろうとするんです。ゲーム感覚で、楽しむつもりでやってみよう。まずやってみて、それから考えればいいからと。そんな社長の言葉を信じて、現場のみんなが必死に頑張ってきたから、うちの会社は赤字転落やリコール問題などの大ピンチを何度も乗り越えてこれたんです』と言われました。グローバル企業のイメージとは違い、何だか面白いなと。突拍子もない言葉で社員を翻弄するトップって、どんな人なんだろう? と、章男会長に少し興味が湧いてきました」 吉川さんは、章男氏を題材にした作品を多数、読み込んだ。老舗の大企業の御曹司らしからぬ型破りなエピソードに触れ、「この人めっちゃタイムスリップしそう!」と、個性に魅了されたという。そして章男氏が時空を超えて、トヨタの歴史に関わるSF伝記小説の構想がまとまった。 「トヨタの担当チームには、最後は吉川さんの判断にお任せします、好きに書いてくださいと言っていただけました。厳しい意見も返しましたが、作家として信頼してもらえたのは、小説を完成させる力になりました」