「入院したのは母でなく私と父でした」薬物依存症の母と絶縁した医師・おおたわ史絵「今でも他の方法が浮かばない」
医師としてメディアでも活躍するおおたわ史絵さん。亡くなったお母さんとは絶縁状態だったと明かします。小さい頃から薬物依存症だったというお母さんとの関係は──。(全2回中の2回) 【画像】「白衣と私服のギャップが素敵」おおわた史絵さんの近影(全9枚)
■鎮静剤から母が薬物依存症に ── 小さい頃はどのようなお子さんだったのでしょうか? おおたわさん:3歳の頃までの記憶はあまりありませんが、楽しく過ごしていたような気がします。小学生の頃は太っていて引っ込み思案。積極的に発言するようなタイプではなく、友達は3人くらいしかいない、どちらかというと冴えないタイプでした。
父が医師だったため、物心ついた頃から、周りには医師になると思われていた気がします。気づいたら自分の前には医師になるためのレールが敷かれていて、そのレールに乗るのがいいと思っていました。私は父のことが大好きだったので、きっと医師になったら父が喜んでくれるだろうという気持ちはありましたね。父から「医師になりなさい」と言われたことはありませんでしたが、「やりたいならやりなさい」と応援してくれて。勉強も好きだったので、進んでしていました。
── 医師になることについてお母さんはいかがでしたか? おおたわさん:母は私に医学部に入ってほしいと思っていたようで、小学生になった頃から教育熱心だったと思います。母は盲腸がこじれてしまったせいで、昔から腹痛が起きやすい体質でした。痛みを抑えるためにオピオイドという鎮静剤を注射していたのですが、私が中学生の頃からだんだんと鎮静剤に依存するようになってしまい…。母は元看護師だったため、注射を自分で打つことができるし、家が病院なので薬も手に入ります。気づくと薬物依存症になっていたんです。
思い返してみれば、中高生の頃から、わが家のリビングには注射器や薬品を入れるガラス製容器のアンプルが転がっていました。でも、他の家庭とくらべる機会がないし、うちは病院なので、当時はおかしいとは思いませんでした。でも、母と一緒に外出すると、薬が切れたせいで急にイライラし出し、怒ることが多くて…。だから長時間出かけることはできなかったし、顔色をうかがってヒヤヒヤしていました。お酒やタバコの依存症と同じで、薬が切れるとイライラしてしまうんですね。でも一番苦しいのは本人。止めたくても止めることができないんです。