「入院したのは母でなく私と父でした」薬物依存症の母と絶縁した医師・おおたわ史絵「今でも他の方法が浮かばない」
── お父さんはどのように感じていたのでしょうか? おおたわさん:父も薬を渡さないように努力はしていましたが、母が父に暴力をふるって注射器を奪ってしまうんです。当時は専門外来などもほとんどなく、なかなかうまくはいきませんでしたね。でも、父は母のことが大好きでしたし、母も父なしでは生きていけなかったと思います。
■母を変えるのは難しいと考え方が変化 ── おおたわさん自身は高校卒業後、医学部に進学されましたよね。
おおたわさん:大学生の途中から実家を出て下宿に入り、家族と距離を置きました。大学卒業後は研修医としてひとり暮らしをして、27歳で結婚。そのため実家では暮らしておらず、また忙しさで自分もギリギリだったため、母のことは見て見ぬふりをしていました。父はその間も母とふたりで暮らしていましたが、母の容態は悪化。私も医師となって学んでいくなかで、やはり自分の家はおかしかったのだと気づきました。その頃には少しずつですが薬物依存を扱う専門外来もできてきていて。それである日、母のことを相談しに行ったんです。
── そこで治療を受けることに? おおたわさん:それが、医師に勧められたのは、母ではなく私と父が入院することでした。私と父がすでに正常な状態ではないので少し離れて休みなさいと、山奥の施設に行くことになったのです。そこは依存症の家族を入院させる施設で、グループミーティングを毎日行いました。自分の話もしますが、いろいろな人の話を聞くことで、このような悩みがあるのは自分だけではない。同じような人がいるのだと知ることで、心がグッと楽になりました。そこには1~2週間ほど滞在しましたが、父も私と同じように感じたみたいです。
── 退院後はなにか変わりましたか? おおたわさん:「母に薬を止めさせなければ、母を変えなければ」と思わなくなりました。母を変えるのは難しいんだと、考え方が変わったんです。この頃になると、母の呼吸が止まりかけて救急車で運ばれることもあったため、父は薬の入荷を止めて母の手に渡らないようにしていました。 その後に父が亡くなってしまい、母は薬物の代わりに今度はテレビショッピングの買い物依存症になったんです。買い物依存症は、そのもの自体がほしいわけではなく、届いた頃には買ったことをもう忘れている…という状態。父がいなくなって、もたれかかれるものがなく、寂しさから私に矛先が向いて…。母は私を振り回したり、困らせたりしたかったのだと思います。私は振り回されることで腹が立ってしまい、このままだと今まで積もった気持ちも含めて、殴ってしまいそうだという考えが頭を渦巻くようになりました。それで、もう関わらないほうがいいと思い、距離を置くことに。最後は心臓発作で亡くなりました。