かつて野中広務が田原総一朗に渡そうとした裏金の額とは?「いいお茶を渡したい」喫茶店で渡された紙袋の中には100万円の封筒がひとつ、ふたつ…
明日から永田町を取材できなくなるぞ
話を元に戻すが、田中側は僕の論考を読んでよしとしたのだろう。 インタビューで田中は、5時間、語りに語った。オールドパーを飲み、タオルで汗をぬぐいながら滔々と話した。そこまではよかった。問題はその後だ。 インタビュー終了後、田中が僕に封筒を差し出した。厚さ1センチくらい、たぶん100万円だろう。予測もしていたし、受け取るつもりは毛頭ない。だが、5時間も語り尽くしてくれた田中に対し、即、封筒を突き返すのは大人げない。 いったんは受け取った。が、その足で平河町の田中事務所へ駆け込み、インタビューを仲介してくれた第一秘書の早坂茂三に返却交渉することにした。 「返したい。受け取ってくれ」 早坂に言うと、早坂は、 「こんなの返したらおやじが怒るよ。明日から永田町を取材できなくなるぞ」 と脅してくる。しかし、こちらもこの点は譲れない。 「こんなの受け取ったら僕はジャーナリストとして失格になる」 永田町どころではなく、どこでも取材できなくなるという本音だった。 30分以上綱引きし、最後、僕は早坂に土下座までした。 早坂は最後まで納得しなかったが、僕はとにかく拝むようにして封筒を置いてきた。 2日後に早坂から電話がかかってきて、意外そうな声でこう言った。 「田原君、おやじが返却をオーケーしたよ」 僕はほっとした。田中角栄がこれに怒って僕に「×」マークを付けていたら、その後の僕は永田町で取材しづらくなったのではないかと思う。 田中から金を渡されて断ったジャーナリストが何人いるか僕は知らない。少なくとも僕との間では、これがきっかけになって胸襟を開くことができたと感じている。 ジャーナリストとして、田中に試されたのかもしれないとも思う。
野中広務からの1000万円
内閣官房機密費(報償費)の話もしておこう。 官房機密費とは、「内閣官房の行う事務を円滑かつ効果的に遂行するために、当面の任務と状況に応じて機動的に使用する経費」だが、一言で言うと、時の政権が政局運営、政策推進のために使う闇金、工作費である。 予算計上は毎年14億6000万円だが、一時はそれでも足りないとして、55億円といわれた外務省の外交機密費のうち20億円を毎年、官邸に還流させていたこともあったといわれる。 使途は、「調査情報対策費」「活動関係費」「政策推進費」にわかれるが、国会議員の外遊時の餞別や、野党工作、メディア対策にも充てられる。 もちろん、首相番記者とか、大手新聞社の記者にはそんな露骨なことはしないだろうが、裏情報に通じたフリーの記者とか、影響力のある政治評論家らには定期的に配られていたという。 僕も影響力のある政治評論家の一人と認められたのか、このお金が届けられたことがあった。関係者がもうすでに亡くなっているので、1ケースを明らかにしたい。 2000年4月の小渕恵三政権末期だった。自自公連立から小沢一郎の自由党が抜けるかどうか、連立離脱政局があった時だ。小渕、小沢の会談が決裂して、自由党の連立離脱が決まり、一方で、小沢自由党も二つに割れ、二階俊博のグループが連立に残ることになる。 小渕もただでは小沢の離脱を認めない、という鬼気迫る政局だった。小渕はあまりにその戦いに傾注した結果体調を崩し、小沢との会談の後に脳梗塞で倒れた。 野中広務から僕に連絡があったのは、小渕が緊急入院したすぐあとだった。野中は当時、自民党幹事長代理で、その半年前までは官房長官を務めていた。 野中から、「田原さん、いいお茶を渡したい」との電話があり、「部屋を取ってくれ」と言う。お茶をもらうのに部屋を取ることもなかろう、どうもおかしいと思い、「喫茶店で結構です」と答えた。 着物を着た女性が約束の場所に現れ、紙袋を僕に渡した。僕はその重さから判断して、「お金なら返さなきゃならない」と押し問答したが、女性が「絶対違います」と言うので受け取った。 女性が帰った後、紙袋をトイレで確認するとやはりお金が入っていた。100万円の封筒が10個、計1000万円。これはいかんと女性を捜したが、すでに帰った後。1000万円だけが手元に残った。