スピリチュアルに金をバラ撒き、庶民には「鬼畜すぎる“大増税”」… 名君・武田信玄の「ヤバい経済政策」
歴史上の英雄たちの業績は、美談で塗り固められていることが多い。しかし、その陰には、あまりに不適切すぎて「なかったこと」にされた史実も多数隠されている。ときには、現在のコンプライアンスは当然として、当時でも許されなかったタブーを破ってしまうことも……。書籍『日本史 不適切にもほどがある話』(堀江宏樹著/三笠書房)より一部を抜粋・再編集し、「鬼畜すぎる重税」を課していた武田信玄のエピソードについて紹介する。 ■「人は城」と言いつつ“重税の鬼”だった武田信玄 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」 この「名言」は、武田信玄の人徳を後世に伝えるものだとよくいわれる。とくに「人材こそ、国を守るための宝である」と意訳しうる前半部分は、身分と時代を超えて敬愛された武田信玄という武将の人柄を伝えてやまないとされる。 しかし残念ながら、これは本当は言っていない確率のほうが高い「ウソ名言」である。同じように美事美談で塗り固められた名君としての武田信玄像を崩壊させかねないのが、史料とその行間に見られる信玄のマネー観なのだった。 大永元(1521)年、武田信玄こと武田晴信(はるのぶ)は、甲斐国(現在の山梨県)を代々統治する名門守護大名の家に生まれた。「信玄」とは、晴信が39歳で出家した後の法名「徳栄軒(とくえいけん)信玄」の一部なのだが、わかりやすさを重視し、本項では信玄の名で呼ぶことにする。 ■最強武将・信玄が抱えていた致命的弱点とは 甲斐国の領土拡大により敵対した越後(現在の新潟県)の上杉謙信、侮りがたい新興勢力である尾張(現在の愛知県西部)の織田信長など、多くのライバル大名との間に数多の戦を経験した信玄だったが、彼らからは「戦国時代最強の武将」として恐れられていたという。しかし、信玄には致命的な弱点があった。資金繰りの不安、つまり金の悩みである。 たしかに武田家は、室町幕府有数の名門武家ではあった。また、その領土は信玄の最盛期には100万石に相当するほど膨れ上がっていた。 しかし、それは通常の土地であれば期待できる米の収穫量の話であって、武田家本領である甲斐国およびその周辺の土地は概して貧しく荒れており、普通に農作を行なっても他地域ほどの収穫が期待できなかったのだ。 甲斐国の甲府盆地には笛吹川と釜無川という二つの川が流れていたので、農業自体は行なえるのだが、この二つの川が実によく氾濫した。 天文9(1540)年、甲斐を襲った大嵐のせいで国中の河川が氾濫し、「鳥獣は皆死に、(財源である)大きな木も流されて一本もなくなった」(『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』)。また、その翌年にも深刻な飢饉(ききん)が襲った。毎年のように存亡の危機に襲われていたのである。 ■「武田騎馬軍」が強かった理由 信玄が父・武田信虎(のぶとら)を追放し、若き当主として武田家のトップに立ったのはこの時期だった。しかし、信虎を追放後、やはり信玄も父親と同じ政策に頼ることになった。それは増税につぐ増税、もっというと実にケチくさい増税路線である。 父・信虎の時代には「棟別銭(むねべつせん)」と呼ばれる税が採用されていた。これは現代でいえば固定資産税に相当するが、家族の数や、家屋の数などによって細かく課され、その年の農作物の出来不出来にかかわらず、定額で収めなければならなかった。 しかも武田家が人民に課した「棟別銭」の税額は全国平均より約2倍も高かった。全国平均50~100文程度のところ、甲斐国の「棟別銭」は200文もした(1貫=1石=現代の10万円、そして1貫=1000文として考えると、約2万円程度)。 さらに天文20(1551)年、天文23(1554)年など、甲斐国の庶民全員に「過料銭」という罰金刑を一律で課すことを繰り返し、国中を嘆かせた(『妙法寺記』)。過料銭とは喧嘩など軽犯罪のペナルティとして、お金をお上(かみ)に納めることで、罪が免除されるという類いの罰金なのだが、生きているだけで罰金徴収とは悪政の極みで「恐ろしい」の一言である。 しかも「逃亡、あるいは死去する者が出ても(他人が)すみやかに(その者の未払い税を)弁済しなさい」「他の郷へ家屋を移す者がいれば(夜逃げなどする者がいれば)、追って棟別銭を徴収しなさい」(以上、『甲陽軍鑑』より意訳)などと、死んでも逃げても税の支払いだけは免れないという鬼の取り立て制度まで用意されていたのだ。 これらは江戸時代に戦国時代の武田家、とくに武田信玄の遺徳を偲ぶ目的で編集された『甲陽軍鑑』という書物にさえ出てくる情報なので、本当はさらに苛烈であった可能性もある。「戦国最強」と謳(うた)われた武田の騎馬武者などは、これらの増税によって維持されていたのだから、なんともほろ苦い。