【Q&A】4月1日に「本島上陸」沖縄戦って何?
「沖縄戦」――。耳にしたことはあっても具体的に何が起きたのか分からない人も多いかも知れません。いつ始まり、どのように終わったのでしょうか。また、どれくらいの被害があったのでしょうか。振り返ってみましょう。
Q:沖縄戦とは?
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年3月に始まった戦闘で、日本軍と米国を中心とする連合軍の間で行われました。 連合軍は3月26日に沖縄本島西部の慶良間諸島に上陸しました。その後、4月1日に沖縄本島中部の西岸にある読谷村(よみたんそん)に上陸し、本島の北部と中南部に分かれて進撃。特に中南部では激しい地上戦が約3か月にわたって行われました。6月23日に日本軍の現地司令官だった牛島満中将が自決し、組織的な戦闘が終わったとされています(自決は6月22日との説もあり)。
Q:沖縄戦の特徴は?
住民を巻き込む大規模な地上戦が繰り広げられたことが挙げられます。10代半ばの未成年も駆り出され、男子は「鉄血勤皇隊」、女子は「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などとして従軍し、多くが命を落としました。
Q:なんで戦闘は長期にわたったの?
当時、日本側は「本土決戦」に備えていました。そのため、沖縄での戦闘は時間稼ぎをすることが求められていたとされています。沖縄が「捨て石」にされたといわれる所以(ゆえん)です。 4月1日に米軍が読谷村に上陸した際、日本軍は短期間に多くの戦力を奪われる恐れのある水際作戦はとらず、「無血上陸」を許しました。従軍記者は当時について、「ピクニックのようにチューイングガムを噛みながら上陸した」と報告しています。 本島に上陸した米軍は、日本軍が作っていた「北飛行場」(読谷村)、「中飛行場」(現在の嘉手納町など)などの拠点を占拠し、自軍の拠点としました。中飛行場は、現在でも「極東最大の米空軍基地」の「嘉手納基地」となりました。
Q:沖縄戦での被害は?
沖縄県によると、連合軍を含む全犠牲者は約24万人です。このうち、沖縄出身者は約15万人。県民の4人に1人が命を落としました。「最後の激戦地」とも言われる本島最南端の糸満市・摩文仁(まぶに)に立つ「平和の礎(いしじ)」には、国籍や軍人・民間人を問わず、沖縄戦で命を落とした人々の名が刻まれています。 沖縄県では6月23日は「慰霊の日」と条例で定められており、休日です。慰霊の日には例年、沖縄県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が開かれ、首相をはじめ沖縄担当相など関係閣僚や衆参両院議長が参列しています。平和の礎がある糸満市摩文仁の平和祈念公園が会場です。