沖縄戦語る2枚の家族写真 元「白梅学徒隊」・武村豊さん
武村豊(とよ)さん。87歳。 沖縄戦で負傷した兵士らの看護にあたった「白梅学徒隊」の元メンバーだ。 那覇市の自宅を訪ねると、2つの家族写真を見せてくれた。1枚目は1941年、武村さんが女学校に入学した前後に撮影されたもので、母カメさんを武村さんら兄弟が囲んでいる。2枚目は今春撮られたもの。子や孫、ひ孫らに囲まれた武村さんが写っている。 一見、同じような構図の2枚の写真。しかし、それぞれの写真について語る武村さんの口調はまるで別のものだった。
憧れだった女学校
1枚目の写真が撮られた1941年、武村さんは沖縄県立第二高等女学校(当時)に入学した。その数年前に父を病気で亡くし、家計に余裕はなかったが、すでに働きに出ていた兄らの送金によって入学が叶った。「英語ができる、音楽ができる。女学校というところに憧れがあった」
しかし時代は太平洋戦争の最中。2年のとき、「敵国の言葉」との理由で英語の授業が廃止に。次第に学校施設も軍によって使われるようになり、農家の手伝いや出征兵士の残した子どもの子守りなどに充てられるようになった。「竹槍を持ち、ルーズベルトとかチャーチルとかのわら人形に突っ込めという訓練もやった」という。
「死んだほうがよい」と感じた沖縄戦
1944年10月10日、那覇中心部が壊滅的被害を受けたとされる「10.10空襲」後は戦争が現実味を増した。翌3月から沖縄戦が始まると、病院壕で銃弾に倒れた負傷兵の手当てにあたった。 「日本兵が悪いことをしたとも言われるが、子と別れて、遠い北海道や長野から来ている人もいた。みんな本当に被害者。沖縄は軍・民・大人子ども差別なくみんなが被害を受けた」 戦況がいよいよ悪化した6月4日、学徒隊は「解散」を命じられ、少女らは散り散りになった。武村さんは、夜は安全な場所を求めて歩き、昼は米軍に見つからないように木の下や岩陰に潜んでいたという。 一番困ったのは食べる物がないこと。「唯一あったサトウキビも米軍の火炎放射器で手当たり次第に焼かれた。真っ黒くなった焼け跡で、土の中から根の部分をほじり出し、しゃぶっていた」。水を頼り共同井戸に行くも、死体だらけだった。「おしっこを飲んだという人もいたらしいが、それだけはできなかった」