漫画で「戦争」描き50年 「僕は僕なりに」沖縄の作家・新里堅進さん
「漫画で戦争を伝える」―。 図書館で偶然手にした手記をきっかけにそう志した高校3年の少年は、初心のままに漫画家となり、約50年が経った今も、机と向き合っている。 しんざと・けんしん(新里堅進)さん。那覇市出身の69歳。 アシスタントを付けず、全ての作業を1人で貫徹する。製作できるのは1日1ページがせいぜい。「悲惨な戦争を漫画にするなんてけしからん」と批判されることもあったが、70歳に迫る今もほぼ毎日、午前5時半から作業にあたる。 なぜ、そこまで力を注ぐのか。
きっかけは高校時代
終戦の翌年に生まれた新里さんは、沖縄戦の生々しい爪あとがそこかしこに残る街並みのなか幼少期を過ごした。神社の鳥居は弾痕だらけ、道端には旧日本軍のものと思われるガスマスクが転がり、地面を掘れば薬きょうが出てきた。 両親からも戦時中の殺りくの様子などを聞いたこともあり、「(戦争に対する思いは)染み付いていたのかもしれない。それがあの本を読んで触発された。火がついた」 「あの本」とは、沖縄戦を体験した沖縄師範学校の生存者らが執筆した手記『沖縄健児隊』。新里さんは、この本を高校3年のとき図書館で読み、同年代の若者が戦争に巻き込まれ、命を落としていったことを知る。「衝撃だった」。絵を描くことが好きだったこともあり、「そのとき漫画家になろうと思った」という。
高校卒業後、夜は漫画製作にあてると決め、昼はアルバイトをした。タクシー運転手や米軍基地の警備員などを転々としたが、「目的がこれ(漫画作り)だから、バイトは定着しないですよ」と笑う。 世に出た最初の作品は『沖縄決戦』(1978年)。夜な夜な書き溜めた作品が、出版社社長の目に留まった結果だった。高校を卒業し、実に10年以上が経っていた。
体験者の話や史料を「縫い合わせる」
「沖縄戦って本当に難しいんですよ。沖縄戦のことを何でも知っているって人がいたら、神に近いとてつもない能力の持ち主でしょう。(私は)40年以上勉強してきて、分からないことばっかり」 新里さんは語る。