富士山と宗教(19) 明治維新、修験者は還俗し山中からは仏像が消えた
明治時代になって日本の宗教政策は大きく変化した。富士山でその変革を主導したのが宍野半(ししのなかば)だ。薩摩(現在の鹿児島県)出身の宍野半は、藩校で学んだ後、国学者の平田鉄胤(かねたね)の門下生となり、その後、明治政府の宗教政策を司る教部省に出仕する。宍野半と富士山信仰との関係、そしてその背景にある明治維新の宗教政策について考える。
廃仏毀釈にはどのような意図があったのか?
静岡県富士宮市の村山浅間神社。江戸時代まで富士山興法寺と呼ばれ村山修験道の中心地だった。1860(万延元)年にイギリス公使、ラザフォード・オールコックが外国人として初めて富士山に登った時も、富士山興法寺から山頂に至る村山口登山道を登った。境内にはオールコックの富士登山を顕彰する石碑が建っている。幕末期まで、富士山は神道、修験道そして民間宗教の富士講の信者や行者が集まり、富士山麓はそれら宗教者や巡礼者によって賑わいをみせていた。 しかし、明治維新を迎えると富士山を取り巻く環境は大きく変わった。神道と仏教を混合して信仰する修験道は禁止され、富士山興法寺は村山浅間神社と改められ、村山口登山道も使われなくなった。修験者たちは俗人へと還俗(げんぞく)を余儀なくされ、富士山頂にあった大日堂は浅間神社(富士山本宮、今日の富士山本宮浅間大社)の奥宮になった。 富士山世界遺産の構成資産になっている村山浅間神社の境内にある大日堂には、大日如来坐像や不動明王立像、役行者像などが祀られているが、それらの像とともに頭部のない像が複数安置されている。 村山浅間神社を案内する世界遺産ガイドによれば、これらの像はかつて富士山に祀られていたもので、頭部がないのは明治時代の廃仏毀釈によって破壊されてしまったからだという。廃仏毀釈は日本各地で起きたことだが、富士山での廃仏毀釈には特異性があったのだろうか。そして明治期の富士山の変化の背景にある鎖国から開国、幕末から維新にかけての歴史、さらに日本の国と宗教との結びつきはどのようなものだったのか。