富士山と宗教(19) 明治維新、修験者は還俗し山中からは仏像が消えた
教部省での民間宗教調査の任で富士講と接触?
国学者が日本の政治に少なからぬ影響を及ぼしていた幕末から維新の時期、宍野半もまた国学を学んでいた。薩摩藩の藩校を経て京都の平田派の国学者、平田鉄胤の門を叩いたのが20代半ばのことだ。維新政府は神道国教化策を打ち出し1870(明治3)年に大教宣布を発して国民教化に乗り出す。当初は神社神道によって教化を図ろうとしたものの、1872(明治5)年には教導職制度を導入して神道家と仏教徒がともに国民教化に当たることになった。維新の復古主義的な国家思想は現実を前に徐々に後退していくこととなる。この間、宗教政策を担う国家機関も、神祇官から神祇省となり、また民間教化の機関として教部省が設置されるなどめまぐるしく変遷した。 宍野半は1872(明治5)年に教部省に出仕し、翌年3月に現在の富士山本宮浅間大社に宮司として着任した。薩摩出身の宍野がなぜ、宮司として富士山にやってきたのか。富士宮市史は宍野と富士信仰の関わりについてこう記している。 「(宍野半は)薩摩藩の郷士出身で、平田鉄胤の門で国学・神道を学び、明治五年教部省が置かれると、同門の士とともに教導職に就いて、十二等出仕となった。ここで、民間宗教調査の任にあたって、富士講や御嶽教と接触する端緒をもったという。そのうえで明治六年三月、浅間神社に宮司として着任するのであるが、ときに三〇歳であった」 上知令により国有地になった富士山頂 宍野半が、民間宗教の富士講を束ねて信者の受け皿となる富士一山講社を設立し、富士一山講社は後に神道扶桑教として明治政府が公認する教派神道になった経緯は本連載「幕府による禁令、神道国教化政策。江戸民衆信仰のその後」に記した。役行者を祀り、修験道ともかかわる富士講は明治政府からは邪教とみなされて信仰を禁止される恐れがあった。富士講の先達や御師たちの嘆願を受けて宍野が富士一山講社を立ち上げたストーリーは一つの歴史には違いない。 しかし、浅間神社の宮司に着任する以前、教部省の人間として宍野が富士信仰や富士講と接触し、その後、浅間神社の宮司に着任したのであれば、富士一山講社の設立も含めて宍野の行動は、ある意味、政治的だったかもしれない。つまり富士山の神道教化を図るために宮司として富士山に乗り込んだといえる。宍野の出身地、薩摩の廃仏毀釈はすべての寺院、僧侶が排斥されたほど熾烈だったようだが、富士山における廃仏毀釈も富士山中から仏像・仏具をすべて取り除き、地名も仏教を廃するものに改めるなど徹底したものだった。富士山興法寺は村山浅間神社となり村山の修験者たちは還俗させられた。 一方、富士講はなぜ教派神道として生き残りが図られたのだろうか? そこには民衆の神道教化の狙いがあったのではないか。一般に明治政府に廃仏毀釈の意図はなかったとされている。国学院大学名誉教授の井上順孝氏も「廃仏毀釈自体は政府の意図をはずれて起きたことです。維新政府というのは財政面でも非常に脆弱でしたから、宗教紛争のようなものが起きたらたまらないわけです。神仏判然令は神社と寺院、神職と僧侶をはっきり分けよという趣旨でした」と解説する。 しかし、富士山についていうと少し事情が異なるようにも見える。富士山の神仏を分離し仏教、修験道を廃して神道の山として教化する。富士山を信仰する民衆宗教は神道として教化をする。そうした意思を宍野半が現場で実践したのではないか。 富士宮市史は「宍野宮司は、平田派国学が神道国教を唱えて教部省に送り、さらにその実践のために浅間神社に派遣した神道官僚とみてよいと思われる」との見解を示し、宍野半が教部省から転出した際、転出先は浅間神社か伊勢神宮のいずれかに限られていたらしいと述べて「政府の浅間神社重視の姿勢をみてとることができる」と記している。 しかし、明治政府が重視したのは浅間神社というよりも富士山ではなかったか。江戸時代、安永の争論を経て富士山頂は浅間神社(富士山本宮、現在の富士山本宮浅間大社)の所有が確定したが、明治政府の上知令により国有地になった。明治維新、開国により訪れた外国人たちによって富士山は対外的に日本を代表する山としてシンボル化されつつあった。日本を象徴する山の信仰は国家神道でなければならない、明治政府で宗教政策を司る国学者たちはこう考えたのではなかったか。