富士山と宗教(19) 明治維新、修験者は還俗し山中からは仏像が消えた
国学院大学名誉教授の井上順孝氏に聞く
東京都渋谷区にある国学院大学。宍野半と少なからぬ関係のある大学だ。国学院大学の前身は明治時代に神職の養成機関として政府が設立した皇典講究所だが、宍野は皇典講究所の設立にも尽力している。 国学院大学名誉教授の井上順孝(のぶたか)氏は、宗教社会学を専門とし、オウム真理教に関する本も著すなど幅広く宗教と社会の関わりを探究し、宗教文化教育の必要性を説いている。井上氏に明治期の宗教政策さらに日本の国と宗教との関わりについて聞いた。 ── 明治維新の宗教政策は古代国家の神祇制度(※注)の再興ととらえていいのでしょうか? 井上順孝氏 古代に律令制度が導入され神祇制度が確立します。しかし、一方で古代は仏教も国分寺、国分尼寺という制度がありましたので、神道も仏教も大事にされていたわけです。仏門に入った天皇も多い。明治維新の場合は、仏教と国家とのつながりを断ち切ろうとしたわけですから、そういう意味では再興とはいっても、時代の変化が織り込まれた再興と言えます。 ── どうして仏教を断ち切ろうとしたのでしょう? 井上氏 それは国学者が中心になって推進したことが大きいですが、もっと広く言うと近代国家の形成が関係しているのかなと思います。江戸時代までは日本にとってモデルは依然中国でした。中国から宗教制度、法律制度も学んできていますから。それを日本風にカスタマイズしてきた長い歴史があります。 ただし神祇制度は中国にはなくて日本独自のものです。近代はモデルが中国から西洋列強にシフトします。そちらを見習おうとして、それまでのアジアの思想は必然的に相対化されたと思います。それと同時に近代国家をつくる上での独自の精神的基盤を求めようとした。彼らが借り物ではないと考えた神道を(国家の)中心に据えることになったのだと思います。 ── 古代、律令制度によって整備された神祇制度はどうして衰退してしまったのですか? 井上氏 武家政権になった時点で弱体化しているわけで、平安時代までですね。律令制度というものが機能していたのは。武家政権になってシステムが変わり、伊勢神宮の式年遷宮をはじめいろいろな神社祭祀が、とくに応仁の乱によってかき乱されます。 ── 廃仏毀釈が起きた要因として、江戸時代、神職が脇に追いやられて僧侶が幅をきかせていた反動と言う見方もあるようですが。 井上氏 江戸時代の仏教は檀家制度、寺請制度ですから完全に政治的な権力と合体しているようなものです。その意味で神職は少し下に置かれ、神職には鬱憤があったかもしれません。 ただ、そうしたローカルな問題とは別に仏教がもっていたプレゼンスが変わるんですね。檀家制度は社会システムですけど、知識人たちは社会制度だけでなく自分たちの理念といいますか、生きる上での支えみたいなもので宗教思想を必要としますよね。真理探究という面もある。平安時代まで仏教はいろんな体系化があり、そして鎌倉時代には日本的な仏教の宗派が出て教えが整備されていくわけです。 しかし、近世になると、世界を理解する枠が仏教から儒教に移ります。儒教的な世界観が有効だということで江戸幕府は基本的には儒学を中心にしました。ということは仏教のプレゼンスが低くなってくる。社会制度としての檀家制度は安定していましたが、思想を学ぶ人たちのレベルでいうと仏教はくみしやすく感じられたかもしれません。それもあって江戸時代になると廃仏思想が出てきます。 ── 江戸時代に国学が盛んになるのもこうした背景からでしょうか? 井上氏 幕府の宗教政策は新しい宗派や解釈が広まっては困るというものでした。だから宗教ではなく学問として儒学が盛んになり、幕府は儒学的な神道は認めました。垂加神道の山崎闇斎(やまざきあんさい)とか。やがてとりわけ復古的な考えの平田篤胤の国学が出てきます。それはナショナリズムに関係します。(明治維新という)時代に向かっていくなかで生まれた動向ととらえられると思います。国際状況を知識人は分かってきますから、幕末の国学者である大国隆正(おおくにたかまさ)は国体という言葉も使っています。 ── 維新を迎えて日本の宗教政策は大きく変わりました。明治維新の宗教政策はどのようにして形成されたのでしょうか? 井上氏 よく言われていることですが、(明治維新の)宗教政策に影響を与えたのは津和野藩の国学者、大国隆正や亀井茲監(かめいこれみ)といった人たちです。大国隆正は平田篤胤の門人ですが、思想的には平田の考えと大国の考えはちょっと違う。薩摩も国学者が強かったですが、そういう藩の人たちが政府の要職を占めた。もともとそういう人たちは尊王攘夷ですから、思想的なよりどころをどこに求めるのかとなると、国学的なものが基盤に据えられたのはある程度、必然性があったと思います。 ※注【神祇制度】平安期までの律令制国家では司法・行政・立法を司る太政官と神祇祭祀を司る神祇官が置かれ、神祇官のもと国家が天神地祇に対する祭祀を担った。これを神祇制度と呼ぶ。