必要がなければそばにいかない…尾崎繁美さんが「愛する息子」に大切にする「距離感」
手をかけるのではなく「目をかける」
父親がいない分、「息子を守る」のは母親の私の役目だという気持ちは強く、常に意識して過ごしていましたが、だからといって母親が何でもやってしまう、いわゆる「過保護」という概念は私にはありませんでした。どちらかといえば「放任主義」で、”かわいい子には旅をさせよ”タイプでした。新しい環境や経験に触れさせることは成長の機会となるのでとても重要だと思っていますし、選択肢は多い方がいい。 ただ、私は「子どもは環境に育てられる」という考え方なので、環境には目を光らせて、選んできました。私の子育てのテーマは、「手をかけるのではなく、目をかける」こと。要約すると、”いつも見てるよ! ”という関心の意識を大事にしてきました。 「目をかける」ことは、私がとても大切にしているシンパシーで、親は”見ている意識”、子供は”見られている意識”があれば、間違った方向にいくことはないと思っています。目をかけるというのは、距離を持って見守るコミュニケーションの取り方です。 実際、ボストンで私は学生をしていましたので、裕哉を夕刻まで学校の放課後子どもクラブに預けていたり、私自身も宿題や課題にも追われていて......正直、手も時間もかけられませんでした。ですが子育ては、多く時間を使えば良いというのではなく、また親がなんでも手を出してしまうのも違うと感じていました。手をかける以上に目をかけることが重要なのではないかと思います。親が子どもに対する興味や関心を意識し、離れていても心の距離感を意識したり、気持ちに寄り添うことが、子育ての質を高めるのに大きな役割を果たすのではないかと思うのです。 ボストンで過ごした時間は、日本で仕事をしていた頃、裕哉に寂しい思いをさせていたあの忙しさとは全く違いました。一緒にいる時間は限られていましたが、その分、凝縮された時間だからこそ心に寄り添った温かな時間になるように工夫していました。夕飯を一緒に食べながら、その日のたわいもない出来事でも目線を合わせて会話をしました。そして、その中で息子の笑顔の確認をするようにしていました。 「子どもは親の背中を見て育つ」と言いますが、逆もまた同じで、親も子どもと向き合って、共に成長していくことが、親子の繋がりを深め、絆を育むことなのだと思います。実際、ボストンに住んでいた頃は、大学の試験の時期になるとピリピリと落ち着かない私に対して、息子の方も母親である私のことをいつも気にかけ、見守ってくれていました。限りある時間の中では、どの瞬間もその時にできる自分のベストだと思い、だからもっとこうだったとかは考えないようにしてきました。