「死んだほうがマシ」と思った学徒動員時代の松根掘り。戦後は女学校を中退してがむしゃらに働いた
◆学制改革の混乱、 とにかく働くしかなく 戦時中に父が病死。戦禍を逃れて遠方の母の実家に疎開し、その地の女学校に転校しました。戦争が終わった年、私は女学校4年生。卒業の年でした。 ところがその時に学校から告げられたのは学制改革。4年制の女学校はなくなり、5年で卒業することになりました。生徒たちは大混乱です。 学徒動員で、その間何も勉強していなかったのだから、もう1年卒業が延びてよかったのではないかと思うかもしれませんが、そう簡単なことではありません。何せ戦争に何もかも奪われて、その日の生活にも困る人ばかりなのですから。 経済的な事情で、5年生まで学業を続けられない人たちが大勢いました。私もその一人です。わが家は農地改革、新円切り替えの影響を受け、所有していた株券が紙くず同然に。大変なことになりました。もうこうなっては学校どころではありません。1日も早く働かないと。 そんなわけで、私の同級生は、4年で中退した人と、5年まで頑張って卒業証書をもらった人に分かれました。同級生のみなさんとは今も仲良く交流しています。どうも昭和6年生まれは、戦争に何もかも翻弄されたようです。運の悪い時代に生まれ合わせたものだと思っています。
女学校を出るとがむしゃらに働きました。当時の日本は貧しく、自家用車はおろか自転車だって持っているのは少数。ほとんどの人の通勤手段は、徒歩と昔ながらの汽車ポッポです。 私は毎朝4時に起き、5時に家を出て約1時間かけて歩いて駅に行き、汽車で職場まで通いました。若かったからできたのでしょうが、90歳過ぎた今もシャンと歩けているのはそのおかげ。 上品な今の新幹線などからは考えられないことですが、汽車の中はいつも大笑いで賑やかでした。時間がなかったと上着のボタンをかけず、下着が丸見えで乗ってくる人、朝食をとる暇がなかったと、ご飯を入れた丼を片手に乗りこむ人。今思うと、汽車通勤は、楽しい思い出ばかりでした。 日本人がみんなで必死に努力したおかげで、日本は復興を遂げました。焦土と化していた街には、次々に新しい建物が。美しく生まれ変わり、昭和39年にはオリンピックが開催できるまでになりました。
斎藤ヒサ