モンスターペアレントは江戸時代に学べ!「親の過干渉禁止」「無礼な子は学ぶ資格ナシ」寺子屋の教えが現代人に必要なワケ
● 僧侶に医師・役人・武士まで教壇に! 寺子屋「充実の教師陣」 寺子屋の教師は「師匠」と呼ばれた。そもそもの興りが寺院だったことから当初の師匠は僧侶だったが、19世紀に入ると医師、町や村の役人、浪人(仕える主君がいない武士)など、さまざまだった。 江戸周辺に限っていえば、女性教師もいた。1873(明治6)年に東京府が発行した『開学明細書』によると、手習所の経営者1000人のうち85人が女性である(※)。 ※歴史学者の大石学著『江戸の教育力』(東京学芸大学出版会)参照。 夫に先立たれた女性が開業(1810/文化10年の随筆『飛鳥川』より)するケースや、稀に江戸城大奥の祐筆(ゆうひつ/文書や記録を執筆する役職)だった女性が退職後、上野国桐生(群馬県桐生市)で寺子屋を経営した例もある。 授業は全員が同じ講義を聞く一斉方式ではなく、クラス分けもなかった。6~15歳の生徒が同じ部屋に集い、各々のレベルに合わせて個別指導を受けた。 初級の幼い生徒が学ぶのは読み書き、つまり基礎だ。教材としたのは人名・地名などで、人名の教科書は日本人の名字の起源が「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)に由来することから、『源平』といわれた。 地名のテキストは庶民の生活の場である村や郡の名前が記された『村名』(むらな)、『郡名』(こおりな)、廃藩置県が行われる前の旧国名(66国)などを網羅した『国尽』(くにづくし)だった。 中級の教材には『五人組条目』(ごにんぐみじょうもく)を使った。これは役所から出された御触れ(法令)をまとめたもので、社会のルールを学んだ。 そして上級になると、商業に必要な専門用語・知識が書かれた『商売往来』(往来物は教科書を指す書物)へと進んだ。農村では、農具・肥料・検地・年貢の役割を記した『百姓往来』も使用した。これらは、生計を立てていくうえで必須の実践的カリキュラムである。