「合戦シーンを見るとは…」藤原隆家が大活躍、刀伊の入寇 「追撃のラインを設定」後世にも評価
大河ドラマ「光る君へ」の最新回では、九州で起こった「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」が描かれました。藤原隆家が活躍する姿も描かれ、平安文学を愛する編集者のたらればさんは「『追撃のラインを隆家が設定した』という記録もあって、後世に評価されている理由のひとつ」と指摘します。(withnews編集部・水野梓) 【画像】初公開の「紫式部図」 平安文学が与え続けるインスピレーション
合戦シーンを見ることになるとは…
withnews編集長・水野梓:ついに描かれましたね、「刀伊の入寇」! 竜星涼さん演じる藤原道隆が大活躍でした。 たらればさん:まさか「光る君へ」で合戦シーンを見ることになろうとは……。あれは寛仁三年(西暦1019年)3月~4月に起こった「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」という事件で、日本側の司令官として活躍したのが中関白家の藤原隆家です。 水野:伊周と定子さまの弟で、道長にとっては甥っ子にあたる人物ですね。 たらればさん:「刀伊の入寇」は「元寇」に次ぐ規模の日本列島への外敵侵略事件であり、平安時代最大の外交危機といえます。対馬と壱岐と福岡に海賊のような船がたくさんやって来て、侵略を試みたものです。 関幸彦著の『刀伊の入寇』(中公新書刊)によると、3月に現れた刀伊の兵船は「五十余艘(そう)」で、一艘あたり20~60名が乗っていたそうなので、2500~3000人くらいの兵力が攻め込んできた…というイメージのようです。 水野:よく撃退できたな…と思ってしまう規模ですね。 たらればさん:対馬、壱岐、能古島と攻め入られていきますが、命からがら壱岐から逃げてきた島分寺(国分寺)の常覚という僧が第一報を大宰府へ伝えたことで撃退の体制が整えられた、といわれます。 その際に大宰府で総司令官として対応にあたったのが藤原隆家ですね。自身が引き連れていた武家貴族と現地の武士を統率してよく戦い、中央に顔も利くので報告や事後処理、論功行賞も迅速で適切だったと言われています。 水野:「よくやった!」「よく来てくれた!」とポジティブな言葉で武士たちを励ますのが「できる上司…!」と思いました。 「対馬の先は高麗の海だ。そこまで行けば、こちらから異国に戦を仕掛けることになる」というセリフがありましたよね。 たらればさん:この「追撃ラインを隆家が設定した」という記録もあって、ここらへんも後世に評価されているようです。 水野:なるほど。 たらればさん:藤原隆家が実資へ送った書状には、「(追撃は)壱岐・対馬等の島に到るべし。日本の境に限り、襲撃すべし。新羅の境に入るべからざる由、都督(ととく)、誡(いまし)め仰する所なり」と記されていて、この内容が実資の『小右記』に記録されています。 これって、「当時の上級貴族における【日本】という認識と範囲が記録に残されている」ということですよね。 隆家は「壱岐・対馬までは日本の支配領域だけど、それより先へ追撃すると新羅(実際は高麗)とモメるから、追いかけちゃダメですよ」と言っているわけで、当時の中央政府における高級官僚(貴族)の認識では、「日本の境」の西端は「壱岐・対馬」だった、と伝わるわけです。 水野:その後、隆家はどうなるのでしょうか? たらればさん:刀伊を撃退した後、隆家はこの年の12月に帰京して、大宰権帥(大宰府の実質の長官)の後任は藤原行成です。 隆家はしばらく京で生活しますが、長暦元年(西暦1037年)に再び大宰権帥に任ぜられています。本人の希望かもしれませんね。よほど九州が気に入ったのかな。