8世紀の大阪は副都だった? 後期難波宮の役所跡が出土
8世紀の大阪は副都だった? 後期難波宮の役所跡が出土 撮影:岡村雅之 THEPAGE大阪
大阪が都だった時代をご存じだろうか。国立病院機構大阪医療センター(大阪市中央区)の建て替えに伴い、発掘調査を実施してきた大阪市教育委員会と大阪文化財研究所が3日、現地説明会を開き、後期難波宮跡で初めて確認された役所の建物跡などを公開した。8世紀後半は平城京と後期難波宮のふたつの都が並び立っていた時代で、首都の平城京に対し、後期難波宮は副都の役割を担っていた。海に開けていた副都難波宮の役人たちは、どんな視点や発想で仕事に取り組んでいたのだろうか。 【拡大写真付き】後期難波宮の屋根瓦落下跡54年ぶり公開に「瓦女子」感動
「国会」に隣接する官庁街の一部が出土
発掘現場は大阪歴史博物館の南側に位置し。後期難波宮跡の朝堂院西方地区と呼ばれている。上町筋をはさんだ東側に難波宮跡公園が広がり、市民が憩う。前期難波宮が7世紀後半に火災で焼失後、8世紀に入って聖武天皇がほぼ同じ場所に後期難波宮を再建した。 北から順に、天皇の住まいである内裏(だいり)、天皇が重要儀式を執り行う大極殿(だいごくでん)、多様な政策案件を協議決定する朝堂院が並んでいた。現在の皇居や国会に相当する都の中枢部だ。 しかし、政治家や高級官僚だけでは政治は回らない。朝堂院の西にあたる発掘現場から、朝堂院で大臣クラスが決定した政策を実現する官庁街の役所建物群の遺構が、初めて見つかった。
簡素な役所建物で実務をこなす役人たち
発掘現場の北側で、東西に並行して走る2列の塀の跡が出土。どちらも掘立柱式の柱穴が一直線に並ぶ。 塀と塀の間隔は8.8メートルで、塀にはさまれた中央部分が宮内道路になっていたと考えられる。北の塀は格式の高い門である五間門があった五間門区画の南端を示す。道路をはさんだ南の塀の内側(南側)で、4つの建物跡の遺構が確認された。 建物は大きいもので、南北2間(5.2メートル)。東西6間(18.1メートル)。建物は塀の中にコンパクトに配置され、建物の規模も朝堂院の建物と比べると小型で簡素。中級の役人たちが実務をこなす役所である曹司(そうじ)の建物だったと推定される。